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掲載日:2025.10.6
最終更新日:2025.10.10
引退後はスタディプラスで数値を取るフォワードへ、そして数値を取らせるマネージャーへ。課題に向かう姿勢が拓いた次のキャリア【前編】
プロサッカー選手(フォワード)として、FC岐阜をはじめ3チームでプレーした瀧谷亮さん。現役引退後は営業職へとキャリアを転向し、2021年から、学習管理アプリ「Studyplus」を運営するスタディプラス株式会社で大学広告営業を担当しています。サッカーで得た学びや経験が、営業の仕事にどう活きているのか。成果を残していくために何をどう考えたのかを伺いました。
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INTERVIEWEE
瀧谷亮(スタディプラス株式会社・アカウントプランナー)
interviewer / writer:Rumi Tanaka
頑張っている姿を“可視化”してチャンスにつなげていく

「学ぶ喜びをすべての人へ」をミッションに、学習管理アプリ「Studyplus」や教育機関向けコミュニケーションプラットフォーム「Studyplus for School」を運営しているスタディプラス株式会社。瀧谷亮さんは、大学への広告営業を担当する西日本グループのマネージャーとして、9人のメンバーとともに働いている。大学広告は、アプリ内での接点を通じてオープンキャンパスや学部の魅力を高校生に届け、大学が求める学生像に合った受験生との出会いを創出する重要なソリューションだ。

大学卒業後に約4年間、FC岐阜をはじめ計3チームでプロサッカー選手として活動してきた。怪我をきっかけに引退を決めてから、初めての“就職活動”がスタート。手探りながらそれまでの人生を振り返り、営業の仕事にたどり着いた。

 

営業として5年目を迎えた2025年の今、「行動量と内容を振り返り改善を重ねていく営業のプロセスは、サッカーに共通している点が多い」と改めて感じている。

 

瀧谷さんがサッカーを始めたのは小学3年生のとき。野球やバスケットボールも並行してやっていたというが、「野球はバットにボールが当たらなくてつまらないし、バスケはボールが重くてしんどかった」と笑う。地域のサッカーチームに入り友達もでき、「サッカーが唯一、無我夢中で取り組めるもの」になっていった。

 

ただ、プロサッカー選手になることは高校生の途中までは遠い“夢”だった。小学生の頃からJリーグ下部チームのセレクションを複数受けていたが、結果はすべて不合格。中学では、セレクションがなく入れるチームでプレーを続け、地元・神奈川県内でベスト16の戦績を持つ高校へ進学することになった。

 

「小学生でも中学生でも、上手い人には必ずスカウトから声がかかり、強いチームに引き抜かれていきます。でも僕には一切そんなことは起こらなかった。高校も決して強豪校とはいえる環境ではありませんでした。ただ、そんな中でも身近にプロになっていく選手がいたり、プロ契約が決まっている選手と試合で互角に戦えるシーンが何度かあったりと、サッカーで生きていくことが、”夢“よりも少し現実的な“目標”に近づいていきました。」

高校の部活は150人以上いる大所帯。試合で結果を残すことはもちろん、普段の姿勢から「応援したい、と周りに思わせる人間性」をどうアピールできるか、常に考えていたそうだ。

 

「朝練のない部活だったので、逆にチャンスだと思って、毎朝グラウンドで一人ボールを蹴っていました。頑張っていることが分かりやすく可視化されると、試合で結果が出たときに『あの努力が実ったんだな』と、行動と成果を結び付けて考えてくれる人が増えていくんです。そんな地道な行動が、次の道へのチャンスにつながったのかもしれません。」

 

「プロになる」覚悟が固まった大学進学、どん底から一歩一歩這い上がっていった

大きなターニングポイントは、大阪府内の強豪校・大阪学院大学への進学だった。監督と繋がりのある大阪学院大学のコーチが試合を観にきてくれた時、「うちの大学の練習に参加してみないか」と声をかけてもらった。地道な努力の結果が人の目に触れたときだった。

 

地元を離れ、サッカーのためだけに大学に行く。その決断をしたときに「プロになる」ことが、達成すべき目標に変わったと瀧谷さんは話す。

 

「高校でもなかなか芽が出ず、両親から『サッカーはもう辞めなさい』と言われることもありました。そんな中で、決して安くない進学費用と一人暮らしをするための生活費をすべて出すと決めてくれた。それに対する感謝と責任感が、『プロを目指すと決めたのなら、絶対にならなくてはいけない』という覚悟に変わっていきました。」

 

しかし、進学した先で待っていたのは「絶望だった」という。大学に集まっているのは、全国トップレベルの選手ばかり。全国大会出場は当たり前、Jリーグのユースから来た選手もゴロゴロといる中で、「自分だけが圧倒的な底辺にいた」と当初を振り返る。

 

「技術は追いつかないし、周りの先輩からも『なんでお前みたいな選手がここにいるんだ』とあからさまにバカにされていました。スカウトされた入学経緯からか、最初はトップのAチームに所属していたのですが、耐え切れずに『一番下のDチームに落としてください』と監督に懇願してDチーム入りするほど、精神的にも追い詰められていましたね。」

 

入学時点で周りの選手と技術と実績に差がある中、一番下のカテゴリーに落ちれば、そこから這い上がるのはますます大変になるはずだ。しかしそこから瀧谷さんがまず取り組んだのは、「自分に足りないものは何か」を整理することだった。フィジカル強化に徹底して取り組むことで、DチームからCチーム、CチームからBチームへと一歩一歩ステップアップしていったという。

 

「サッカーで必要なものには、心技体それぞれありますが、僕にはそもそも“体”が足りていなかった。筋トレも全然できていませんでしたし、食事の内容や量も問題だらけでした。そこにフォーカスしていくと試合でも競り勝てるようになっていきました。“技術”では、何を改善するためにどんなトレーニングに取り組むべきか、明確な意図を持って計画を立て、チーム練習の前後1時間を必ずトレーニングに充てていきました。」

フィードバックを受け入れ教わったトレーニングをひたすら継続

トレーニングで大切にしていたのは、「教えてもらったことを徹底的にやる」姿勢だ。練習や試合を通じて監督からフィードバックをもらったら、それを改善するためにどんなトレーニングが必要なのかをコーチ陣に教えてもらっていたという。

「大学には、もともとプロで活躍していた指導者がいました。細かな技術向上に特化したトレーニングに関しても、豊富な知見を持っている人がたくさんいた。だから、教わったことをとにかく素直に、そのまま実行しようと決めていました。」

 

フィードバックをもらい、ネガティブな指摘も受け入れて改善につなげていく。仕事においても、成長するための基本原則とも言えるような姿勢。それを貫ける素直さこそ、瀧谷さんの強さの理由なのだろう。

 

「自分にはこれしかない、と思って続けてきたサッカーで、絶望と思えるほどのどん底を見た。その体験は大きかったですね。でも、そんな環境を選んだのは自分ですし、両親にも友人たちにも『プロになるから』と宣言して飛び出してきた。諦めるという選択肢がないのなら、もらえる指摘やアドバイスはすべて取り入れて、できることをやり尽くすしかありません。絶対達成したいゴールがあれば、恥ずかしさなんて小さなプライドは捨てきれるんだと思っています。」

 

大学卒業後にFC岐阜への加入が決まり、プロサッカー選手としての人生をスタートさせた瀧谷さん。「大学4年の2月にようやく契約が決まった」というギリギリのタイミングだったと言う。

周りがプロ契約や就職をすでに決めている中、さぞ不安だったのでは…と思うが、実際はほとんど不安を感じていなかったという。

 

「大学4年の冬の全国大会でようやくスカウトの目に留まり、春季キャンプに帯同させてもらう中で契約を結ぶことができました。もしそこで決まらなければ4月から無職だったのですが、『長い人生の中で、1年間無職だったとして大したことはないだろう』と思っていました。

 

そこに至るまで、無名の中学生時代から高校に進み、強豪の大学に引っ張ってもらい、Dチームから這い上がって最後はAチームで試合に貢献できるまでになった。やってきたことへの自信から、『また逆境に陥っても、自分ならきっと何とかできる』と思えていたのかもしれません。」

約4年間のプロ選手生活は「挫折しかなかった」という瀧谷さん。後編では、プロ生活から現役引退、そして営業職へのキャリアチェンジを経た今を語ってもらう。

 

後編はこちらからご覧ください。

 

瀧谷亮(たきや りょう)

1994年生まれ。大阪学院大学卒業後、FC岐阜へ加入。カターレ富山、ラインメール青森FCへの移籍を経て、2020年に現役を引退。2021年にスタディプラス株式会社へ入社。大学広告営業西日本グループのマネージャーを務めている。

CREDIT
interviewer / writer : Rumi Tanaka
director / editor : Yuya Karube
assistant : Makoto Kadoya / Naoko Kamada / Hinako Murata
SPECIAL THANKS
両親
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