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掲載日:2023.6.1
最終更新日:2023.10.17
【前編】この人生を最幸のものにしよう 一人きりの日々を越え仲間たちと挑む村田和哉の人生第2章
村田和哉は一言で言うとエネルギッシュ。セレッソ大阪、清水エスパルス、柏レイソル、アビスパ福岡、レノファ山口を渡り歩いた男は、生まれ育った滋賀で初のJリーグクラブを誕生させるべく、ヴィアベンテン滋賀のプレーヤー兼代表取締役として、今まさに地域を巻き込んで活動をしている。清水エスパルス時代はピッチ上での活躍はもちろん、地域貢献にも全身全霊を尽くす姿が話題となり、エスパルス史上初となる県外出身選手の後援会の設立など、選手としてだけでなく人間性の面でも地域に根付いた選手になった。そんな村田は現役引退を発表すると、地元・滋賀に戻ってヴィアベンテン滋賀と株式会社人生最幸を立ち上げ、自らの信じる道を突き進んでいる。 なぜ、彼はここまで信念と情熱を持ってアグレッシブに行動し続けられているのか。そこには大きな人生のターニングポイントがあった――。
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INTERVIEWEE
村田和哉(株式会社人生最幸 代表取締役/ヴィアベンテン滋賀 代表兼選手)
interviewer / writer : Takahito Ando
深い悲しみを経て踏み出した大きな一歩

筆者はこれまで数多くのインタビューや取材をこなしてきたが、それらを通して得た一つの教訓がある。それは悲しみや苦しみを味わった人間こそ、人に対して明るく振る舞えるということ、そして人に対して情熱を向けることができるということだ。村田和哉の人生を見てみても、まさにそれがピタリと当てはまる。

 

滋賀県守山市で生まれた村田は、どこにでもいる生粋のサッカー小僧だった。河西サッカースポーツ少年団ではずば抜けたスピードを誇り、滋賀県トレセンにも選ばれていた彼は、人懐っこい性格もあり、指導者からも好かれる存在だった。

だが中学2年生の時、何不自由なくサッカーに打ち込んできた村田に突然の知らせが届いた。

 

それは最愛の父親の死だった。

 

いつものように中学校に行き、家に帰ると母親の様子がおかしかった。そして、その後にこの事実を聞かされた。目の前が真っ暗になった。ちょうど思春期で反抗期を迎えかけていたときに、信じられない、信じたくない事実を突きつけられた。

 

「サッカーなんてやっている場合やない。もうサッカーをやめて、中学を卒業したら働こう」

 

そこまで考えた。だが、責任感の強い長男の村田を引き止めたのは、仲間たちであり、周りの大人であった。

 

「お前はサッカーを続けて、天国のお父ちゃんを喜ばせてあげなあかん」

 

中学時代に所属していた淡海ジュニアユースFCの指導者たちはもちろん、小学校時代の恩師、滋賀県サッカー協会の人たちも声をかけてくれた。

 

「親父のことを知る人たちも僕に声をかけてくれて…。みんなの声に背中を押される形で『俺はサッカーを続けないといけない。おかんのため、家族のため、周りの人たちのためにサッカーをやろう』と思うようになったんです」

 

当時はまだプロサッカー選手という具体的な目標はなかったが、自分のため、背中を押してくれた人たちのためにサッカーをやるというベースがこのときに生まれたのだった。

さらに村田は新たな行動をするようになった。父の死から数週間後に、生徒会長に立候補したのだった。

 

「人生は一度きり。この悲しい経験から俺は新たな一歩を踏み出すんだ」

 

こう思った村田は、これまでやらなかったことにチャレンジしようと生徒会長に名乗り出て、実際に生徒会長に就任した。ここで新たな一歩を踏み出せたことで、リーダーシップを取ることや、周りの意見に耳を傾けながら方向性を決めることの大切さ、喜びを知ったのだった。

強くなる「恩返し」の気持ちと滋賀県への想い

「将来、滋賀県で仕事をしたいな。当時支えてくれた人たちに恩返ししたい」

 

大好きなサッカーを続ければ続けるほど、この気持ちは強くなっていった。野洲高校に進み、高校2年生の時には『セクシーフットボール』旋風を巻き起こして、全国高校サッカー選手権大会で滋賀県勢初の優勝を達成。

 

この大会で村田はメンバー入りこそしたものの、出番はなかった。それでも高校3年時にはレギュラーの座を掴み、セクシーフットボールの申し子と言われた乾貴士とともにチームの主軸として活躍した。

 

だが、高校3年時に激しいプロの争奪戦が繰り広げられた乾と、全く声がかからなかった自分を冷静に見て、「俺は将来、学校の先生になって滋賀県に貢献しよう。サッカーを教えながら、先生として生徒に勉強も教える。これが俺のやるべきことだ」と考え、進学先には教員免許が取れて、サッカーも強い大学を志望した。

 

とはいえ、村田は母子家庭であり、長男でもある。「家族の近くにいないといけない。関東や九州などにいくことはできない」と、地元・関西の大阪体育大に進むことを決めたのだった。

 

結果としてこの進路選択が村田のサッカー人生を大きく変えた。大学1年生の時には関西大学1部リーグにおいて2部降格を味わった。だが2年生になるとレギュラーに抜擢され、チームは2部リーグで無双状態に入った。勢いそのままに2部リーグを制して1年での1部復帰を果たし、夏の総理大臣杯では2部リーグ所属のチームながら優勝を手にした。

 

この時、2年生で試合に出ていたのは村田、川西翔太(現・カターレ富山)、藤春廣輝(現・ガンバ大阪)の3人だけだった。たちまちJクラブ注目のトリオとなると、大学4年生の時にセレッソ大阪から正式オファーが届いた。

 

この時、すでに教育実習を終え、秋の教員採用試験に向けて勉強をしていたが、それを切り上げて二つ返事でセレッソ入りを決めた。

 

新たな人生プランと決断の先に待っていたのは人生最大の困難だった

一度は諦めかけたプロサッカー選手に、ついになった。それと同時に、新たに人生プランを立て直した。

 

「プロサッカー選手としての平均寿命は26歳と言われている。そう考えると大卒で入る自分は『あと5年程度しかないやん』と思ったんです。高卒でプロに入った乾と比べて4年遅れで入るわけですから、当然そうだろうと思いました。

 

そして『自分は平均寿命プラス4年、さらにもう2年くらいまで頑張って、32歳までは絶対に現役を続けて、その後に滋賀県に帰って何かをしよう』と決めたんです」

 

32歳まではプロサッカー選手として全力を尽くす。そう決意した村田は2011年、再びチームメイトとなった乾と共に努力を重ねた。1年目はJ1リーグ6試合に出場し、プロ初ゴールをマークした。翌2012年には清武弘嗣、扇原貴宏、山口蛍など日本代表クラスの選手たちが名を連ねるチームにおいて、J1リーグ13試合に出場をした。

 

そしてプロ2年目を終えた時、さらなる決断をした彼に人生最大の困難が訪れた。

 

短いと予想したプロ人生において「より上」を目指していた村田は、この年のオフに海外移籍を決断する。希望したのはヨーロッパではなく、アメリカだった。

 

「乾や香川くん、キヨ(清武)が次々と海外に行って、俺も行きたいと思うようになったのがきっかけでした。でも、俺はヨーロッパではなくて、英語も勉強したかったのでアメリカを希望しました。ちょうどその時、代理人制度が変わってFIFAのライセンスを持たなくても、誰でも代理人となれる制度になったんです。そこで『アメリカなら伝手がある』と言われたある代理人を信じたのですが…。待っていたのは地獄でした」

 

クラブフロントとの来季に向けての話し合いで村田は、海外挑戦をすることと、決まらなかったらセレッソに残ることを伝えた。意気揚々と代理人からの連絡を待った。しかし、待てど暮らせど連絡は届かない。日に日に焦りを募らせていくなかで、ついに年を越してしまった。代理人に何度連絡しても進展はない。

 

「もう海外移籍は諦めよう」と判断した村田は、セレッソに来季もプレーする旨を伝えるが、すでに編成は村田抜きで完了しており、そこに彼の居場所はなかった。

 

「目の前がもう真っ暗になりました」

 

自宅待機を命じられたのは始動日の前日だった。新シーズンに向けてチームは始動し、キャンプインをしても村田がチームに合流することはなかった。この時、彼は滋賀の実家にいた。自分の立場が決まらず、自宅近くの小学校のグラウンドや公園で一人走り込みやボールを蹴る日々を送っていた。

 

サッカーをする仲間も、トレーニングパートナーもいない。練習用のコーンやグリッドもない。誰もいないグラウンドの片隅で、土のグラウンドに足で線を引いてラダートレーニングやドリブル練習をする日々。

 

「俺は一体何をやっているんや」

 

代理人、クラブからは一向に連絡が来ない。こみ上げる怒り、不安、焦燥感。そして無情にも過ぎていく時間。季節は初春を迎え、2013年J1リーグも開幕を迎えていた。

 

もう何を信じていいか分からなかった。代理人からは「もう直ぐアメリカに行ける」と言われ、一人でトレーニングを続けながら大きなスーツケースに滞在用の荷物を入れるも、その「もう直ぐ」が訪れない。

 

「約束と違うじゃねぇかよ!」

 

怒りのあまりに部屋でスーツケースを床に叩きつけたこともあった。「なんでこんなことになっちまったんだ」とやり場のない怒りに何度も震えた。

 

その怒りを鎮めるために、何度も琵琶湖のほとりを走った。いつもは綺麗に映っていた琵琶湖が、この時ばかりは少しくすんでみえた。それでも、家にいる時よりは幾分か明るい世界だった。部屋にいると、どんどん暗闇に引き摺り込まれていく。

 

先の見えないなかで村田はもがいた。そしてもがき続けた結果、彼の前からは闇が消え去り、まるで晴れ渡る琵琶湖の風景のように光が差す場所へたどり着くことになる――。

 

中編はこちらからご覧ください。

 

村田和哉(むらた かずや)

滋賀県守山市出身のサッカー選手。ポジションはMF、FW。
野洲高校から大阪体育大学へ進学、大学2年時には第32回総理大臣杯で全国制覇を果たした。
2011年にセレッソ大阪でプロデビューを飾り、その後は清水エスパルス、柏レイソル、アビスパ福岡、レノファ山口FCでプレー。サイドを切り裂く快足を武器に、交代の切り札として活躍した。2021年に現役引退を発表。
引退後は「滋賀県にJリーグを」という夢を実現させるため、ヴィアベンテン滋賀と株式会社人生最幸を立ち上げる。

CREDIT
interviewer / writer : Takahito Ando
editor : Takushi Yanagawa
director : Yuya Karube
assistant : Naoko Yamase
SPECIAL THANKS
Ai Murata
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