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掲載日:2024.6.26
最終更新日:2024.6.27
【中編】「引退」など考える必要はない。人生を組み上げる起業家兼現役アスリート小谷光毅の軸の作り方
小谷光毅、元プロサッカー選手。ビジネスとサッカーを両立してきた彼は、ドイツリーグとJリーグを経験し、今なお神奈川でプレーを続ける一方で、金融業界を経て自身の会社を設立しアスリートのキャリアに関する課題へ一石を投じている。これまでの歩みを紐解く中で見えてきたのは、彼の経験に裏打ちされた思考術と人生の軸、理想とするある人物の姿だった。小谷の目に世界はどう映り、なにを模索してきたのか。そして追い続ける理想とはー。
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INTERVIEWEE
小谷光毅(株式会社Athdemy 代表取締役社長)
interviewer / writer:Takahito Ando
名門チームの副キャプテンを任されたからこその「就職活動」

前編はこちらからご覧ください。

 

小谷にとってターニングポイントの一つになったのが、明治大学から野村證券に入ったことだった。

 

実は彼の就職活動期間は大学4年生の春、1ヶ月だけ。それまではG大阪でプロになることを信じて疑わない大学生プレーヤーだった。

 

転機は最終学年となる新チームが立ち上がったとき、名門チームの副キャプテンを任されたことだった。これまでは1プレーヤーとして自分の成長とチームの勝利を考えていたが、副キャプテンになったことで、人前に出て話す機会が増えたり、「この組織をどうマネジメントするのか」という新たな視点と考え方が生まれた。この経験から彼の中で心境の変化が生じたのだった。

 

自分にとって新たに必要なものを知ったことで、どうその能力を身につけるのか、これまで考えていなかったビジョンに思考が一気に傾いた彼は、すぐに就職活動を「社会を知るための行動」と位置付けた。

 

「最初にソフトバンクグループの『No.1採用』に注目しました。これは1番になったことがあるジャンルに対して、どんな課題があって、どう乗り越えて、何を学んだのか、そしてそれを社会やソフトバンクにどう生かしていくかをプレゼンし採用・不採用が決まるというシステムでした。このプログラムを見た時に『これまで自分がやってきたことを生かしながら、かつ自己分析もできて、人前で話す練習にもなる』と思ってすぐに応募しました」

 

小谷の中でサッカーとビジネスが結びついたのはここがスタートだった。2回の面接で無事に内定をもらうと、次は野村證券に向けた就職活動を開始した。

 

「サッカー部という世界だけではなく、部外のいろんな人たちの話を聞いて視野を広げないと、部員やスタッフに発信をしたり、組織マネジメントをすることはできないと考えるようになりました」

「野村證券の人と会った時に、全てにおいてしっかりとした軸がある中で、ロジカルかつ熱意を持って話をしてもらえて、『サラリーマンってかっこいいな』と感じるようになりました。

 

僕が明治大の政治経済学部経済学科で経済を勉強していたのもあって、『もうちょっと金融の世界を勉強してみよう』と思い、少し勉強をしてみたら『この世界結構面白いぞ』となって。そこからガンバに戻るのか、野村證券に行くのかという2択になりました」

怪我をきっかけに野村證券へ。プレースタイルとの共通点とは?

ちょうどその時、G大阪からの正式オファーはなかったが、練習参加をする話が浮上していた。野村證券から内定をもらってからも、「もしガンバからオファーをいただいたら、そっちに行かせていただくかもしれません」と伝えて了承も得ていた。だが、練習参加が決まりかけていた9月に膝の大怪我に見舞われた。

 

「すべてが白紙に戻りました。でも、その瞬間にショックというより、『そういう運命だったんだな』と素直に感じられたので、野村證券に行くことを決めました」

 

野村證券では新潟支店に配属。ここで彼はピッチ上でやっていたことと、この会社でやることがそこまでかけ離れているものではないことに気づき、濃密な時間を過ごすことができた。

「上司も先輩も本当に優秀な人が多くて、その人たちから証券マンとしてだけではなく、話し方や所作、勉強方法などビジネスパーソンとして学ぶことがとてつもなく多かった。ビジネスパーソンとしてのあり方を学びながら、営業面では社会人1年目、20代前半の人間がいきなり社長クラスの人たちと仕事をするわけです。

 

社会経験が豊富どころか、トップに立つ人たちに対して金融のプロとして提案をしなければなりません。なぜこの株を買うべきなのか、この世界の情勢は現状どうで、今後どうなっていくのかをかなりリサーチして、その上で商談に持っていかないと相手にしてもらえないんです」

 

補足だが、これは筆者の実体験とも一致する。筆者も大学卒業後に銀行に就職している。融資や投資などのお金の話を社員ではなく、社長とすることが多く、まさに彼と置かれた状況が一緒だった。日経新聞を隅々まで読んで、会社の経営状況を把握し、さらにその業界の現状や未来を考えながら社長との面談に挑まないと、彼の言う通り相手にしてもらえない。

 

自分の知識量や立場、相手の立場と状況を把握し、そこからどう商談を成功させる道筋を描き、実際に成就させるか。そのトライ&エラーを繰り返す中で自分の課題や長所、短所を洗い出して必要な努力を講じる。これはサッカーの世界でやってきたことそのものであり、これをピッチでハイレベルにこなしていたのが遠藤保仁だった。

 

「僕はそのリサーチがめちゃくちゃ好きで楽しかったんですよ。中でも僕は個別株(証券取引所に上場している会社の株式)が好きだったので、その勉強は特にしました。証券の世界に流れのままに行ったのではなく、自分がやりたい、学びたい、興味がある状態で入社したのでもう貪欲さが違いました。

 

好奇心がどんどん湧いてきて、知識だけではなくイメージを膨らませながら日々を過ごしていました。基礎を大事にしながら、創造性も磨く。それってやっぱりヤットさんのプレースタイルなんですよね」

ドイツ行きを決めた「何歳でもこの仕事はできる」

充実した毎日。このまま野村證券で上を目指しても良かったが、入社1年目の秋に会社を辞めて単身ドイツに行くことを決断した。

 

「ちょうどこの時にリオ五輪があったんです。僕はリオ五輪世代でしたし、ラージキャンプにも参加していたので、もしスムーズに行っていたらあの舞台でやれていたかもしれない。その悔しさが沸き起こったことが要因でした。そしてもう一つ大きなきっかけになったのが、夏に野村證券のロンドン支社に呼んでもらったことです。

 

そこでヨーロッパで活躍するトップエリートたちに『そこまでサッカーができるのに、なんで普通の道にきたの?この道は何歳でもできるよ』と言われたんです。最初は『何を言ってるんやろ?さすがにそれは無理やろ』と思っていました。でも、帰国後にある人を見てその考えが変わることになりました。

新潟支店に中途採用で入社してきた40代の方が、全く未経験の業界のはずなのにすぐに大活躍をしたんです。その姿を目の当たりにして、『人って自分次第でどこでも、いつでも活躍できるんや』と学びました。この2つが決断の源となりました」

 

転職をしてきた方に「なんですぐに結果を出せるんですか?」と聞くと、「特別に何かをしているわけではなく、きちんと目標設定をして、どうやってやるかをきちんと道筋を立てて、あとはやるかやらないかだけじゃない」という答えが返ってきた。

 

まさにそれは自分が信念として軸にしているものであった。その言葉にも背中を押された小谷は、「じゃあ俺はもう一度プロサッカー選手を目指そう」と覚悟を決めたのだった。

 

そして彼は、野村證券を退職。ここからただひたすらプロテストを受けていくのではなく、自分の軸に基づいてプロサッカー選手になって上を目指すために必要なプランとビジョンをリサーチしながら設定をし始めた。

 

1年のブランクがある選手がいきなりJリーグでプレーするのは難しい。そうなると海外も選択肢に入ってくる。すぐに海外サッカーのプロ事情をリサーチすると、Jリーグに進めなかった大学生選手がドイツにチャレンジすることが増えているという事実に突き当たった。さらにリサーチを進めると、ほとんどが6部か7部リーグのクラブに入っていることが分かった。

 

ドイツのリーグはブンデスリーガを頂点に3部までが完全プロクラブで、4部はプロとアマチュアが混在し、5部以下はアマチュアである。

 

「正直、『それは海外挑戦というよりもただの留学なんじゃないか』と思ったんです。なぜそうなるかを調べたら、多くの選手はネットワークが限られた日本人のエージェントに頼んでいて、その人が持っているコネクションにしか頼れないからそうなっているんじゃないかと。

 

であれば、僕はドイツ人でブンデスやイタリア・セリエの選手と契約をしている代理人を紹介してもらおうと思い、大学時代にお世話になった日本人のエージェントにドイツ人のエージェントを紹介してもらいました」

 

明治大学の練習に参加をしてコンディションを急ピッチで上げながらエージェントからの連絡を待った。

「1ヶ月くらい経ったときに代理人から連絡があって、『練習参加できるクラブが見つかったから、すぐ来い』と言われて、荷物をまとめて2日後にドイツにつきました」

 

複数クラブの練習に参加をすると、4部のチーム3チームと5部のチーム3チームからオファーが届いた。ここでの決断もまさに彼らしかった。

目的への成功確率を高めるための5部行きの戦略

「4部はプロなので普通だったら迷わずその3チームのどれかに行くと思います。でもこの時期はリーグも後半戦に突入している。そこで僕にオファーを出したチームは下位で低迷していて、チーム状態がよくありませんでした。

 

そんな状況でドイツ語も喋れない、1年間もブランクのある自分が助っ人としていくわけですから、結果を出せなかったらすぐにクビになる。まずはドイツのサッカーの環境に慣れて、ドイツ語を学ぶためにも、オファーがある中でレベルは下でも、5部の方がいいのではないかと考えました。

 

5部で目に見える活躍をして、来年は4部以上にステップアップをする。この狙いに合致したのが、5部の最下位のチームでした。ここでチームを残留させれば、それが目に見える活躍になると」

このプランは的中し、加入したBCFヴォルフラーツハウゼンは彼の活躍もあって残留を決め、翌シーズンには4部のVfRガーヒングに移籍をして1シーズンプレーした。だが、彼はそのシーズン終了後にドイツを後にしてJ3の盛岡に加入をした。

 

3部リーグへの個人昇格を狙っていたが、シーズン中盤に肉離れをしてしまい、治療のために一時帰国。その際に改めて人生プランを建て直し、Jリーガーになることを決めたのだった。

 

「プロサッカー選手になると決めた時に、『どうやったらJ1〜J3のクラブに最速で行けるか』という考えがベースにありました。その中で盛岡からオファーがあったので、移籍することを決めたんです」

 

盛岡ではすぐにレギュラーの座を掴むと、リーグのほぼ全ての試合に出場。翌2019年には同じJ3のブラウブリッツ秋田に移籍をし、開幕からレギュラーとして出場。しかし、後半は出番を失うと、2020年には盛岡に復帰。再び主軸としてキャリアハイとなるリーグ全34試合にすべてスタメン出場を果たした。

 

だが、彼のJリーガー生活も3年で幕を閉じた。というよりこれまでと同様に自らの意思で区切りをつけたのだった-。

 

後編はこちらからご覧ください。

小谷光毅(こたに ひろき)

大阪府出身のサッカー選手。ポジションはMF。

ガンバ大阪のアカデミー出身で、大学時代は明治大学でプレー。卒業後は野村證券に就職したが、再びサッカーの道へ進むためにドイツへ渡り、2017年1月にドイツ5部のBCF Wolfratshausenへ加入。同年7月、ドイツ4部のVfR Garchingへ移籍した。

2018年にグルージャ盛岡へ完全移籍で加入し、以降はブラウブリッツ秋田を経て、いわてグルージャ盛岡へ復帰。2022年より神奈川県社会人サッカーリーグ2部の鎌倉インターナショナルFCにてプレーを続ける。

攻撃的なポジションでのプレーを得意とするが守備のクオリティも高く、司令塔としての役割を担う。

プレーを続ける傍らで2023年に「アスリートが輝き続け、引退のない世界を創る」というVisionを掲げ、株式会社Athdemy(アスデミー)を立ち上げる。

CREDIT
interviewer / writer : Takahito Ando
editor : Takushi Yanagawa
director : Yuya Karube
assistant : Naoko Yamase
SPECIAL THANKS
小谷忍/盛子
ガンバ大阪
野村證券株式会社
株式会社マネーフォワード
鎌倉インターナショナルFC
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