第1回はこちらからご覧ください。
プロになりたての頃の自分を振り返ると、正直、右も左もわからなかった。練習の流れやプレーの狙い目、プロレベルの専門用語、外国籍選手も含めたチームの文化。何もかもが、それまで自分がやってきたバスケとは違っていた。
先輩選手や外国籍選手の動きを見て、ただ見よう見まねで練習する毎日。そして社会人としても1年目で、わからないことだらけだった。クリニックやイベントでの立ち回り、チームとの契約更新、税金や確定申告、慣れない雪国での一人暮らし。
「プロってこんな流れなんだ。社会人って新しいことだらけだ」
——目の前のことを理解するだけで精一杯だった。それでも、ひとつだけ当時からはっきりしていたことがある。「もっと成長したい」「もっと学びたい」という気持ちだ。
プロとして最初のオフシーズン、「一緒にアメリカに行かないか?」と当時のチームメイト、村上駿斗選手から誘いを受けた。スラムダンク奨学生としてアメリカでのプレー経験もあった彼が、チームの外国籍選手と一緒にロサンゼルスでトレーニングを積むという。
当時、オフにアメリカまでトレーニングに行く日本人選手はほとんどいなかった。自分にとっては完全に未知の世界だったが、二つ返事で「俺も行く」と伝えた。

海外に足を運び、アメリカのバスケットボール文化に触れた。
あるNBAチームのGMが視察に来ていたUCLAでのワークアウトとピックアップゲームを見学したときの衝撃を、今でも覚えている。来シーズンの契約を勝ち取るため、滝汗を流しながら自分を追い込むNBA選手。「NBA選手とやり合える」と証明するために、必死にアピールしながらプレーする海外リーグの選手や大学生。
そして、ワークアウトをオーガナイズしていたコーチ陣もまた、ただの裏方ではなかった。彼らの多くは大学や特定のチームに属さないスキルコーチで、その指導力や練習の組み立て方、空間の作り方までもがGMの視察対象になっていた。良いコーチであれば、NBAチームに引き抜かれる可能性もある。
つまり、あのコートに立っていた全員が審査されており、選手だけでなく、コーチにとってもトライアウトだったのだ。そこにあったのは、“練習”という言葉では片付けられない、本気の空気だった。バスケットボールで生きていこうとする漢たちの集まり。契約、立場、未来、すべてを懸けてコートに立つ姿。
その勝負への向き合い方を間近で体感できたことは、若い自分にとって本当に大きな衝撃だった。
こうした機会を得られたのは、当時のチームメイトや環境のおかげで、今でも心から感謝している。
プロ2年目、3年目と時間が過ぎる中で、少しずつ感じるようになった。
「同じことをやっているだけでは、突き抜けられない」
山形ワイヴァンズ時代、メンタルコーチとパーソナルトレーナーをつけた。
パーソナルトレーナーには月に1回、仙台から山形まで来てもらい、自分専用のトレーニングを組んでもらった。それまでは、チームで与えられたメニューを各自で行うスタイルだったが、自分の動きを根本から変えたいと思っていた自分は、股関節周りの使い方や腹圧を高めた状態でのトレーニングに重点的に取り組んだ。
メンタルコーチとは、試合中に迷いや不安が生まれたとき、それをどう捉えるか、自分の強みやミッションは何かを言語化する作業に向き合った。本や記事で学ぶことはできる。だが、専門家の知識を自分専用に“カスタマイズ”してもらう感覚は、その後のキャリアに大きな影響を与えた。
チーム練習は、全員にとって最適とは限らない。
ベストな環境をチームが用意してくれるのを待つのではなく、自分の課題に合った環境を、自分で用意する。この意識が芽生えたのが、この頃だった。
2017-18シーズン終了後、チームを探すことにした自分は、エージェントの鴨志田さんと契約した。鴨志田さんは当時から富樫勇樹選手をはじめとするトップ選手たちを担当しており、正直、その頃の自分は実力も実績も十分ではなかったと思う。
それでも、「この人に見てほしい」という思いがあった。知人を通じて紹介してもらい、自分の考えや目指す方向を率直にぶつけた。川村卓也選手や富樫勇樹選手のアメリカ挑戦を支えてきた鴨志田さんは、もしかしたら実力以上の何かを見てくれたのかもしれない。
その後、B1レバンガ北海道のチーム練習に参加させてもらえることになり、3日間トライアウトという形で自分の実力と人となりを見てもらえる機会を得た。

練習に向かう際、鴨志田さんから言われた言葉が今も印象に残っている。
「いろんな人とコミュニケーションを取りながら、とにかく礼儀を大切に」
当時は「バスケの話じゃないんだ」と少し意外に感じた。だが今思えば、人となりが契約やキャリアに与える影響の大きさを教えてくれていたのだと思う。
実際、この後のキャリアで海外挑戦やコーチとの二刀流といった、思いもしなかった選択肢が広がったのは、この出会いがきっかけだった。
キャリアの転機のひとつが、コロナ禍で一度フリーになった時期だ。アルバルク東京を経て契約がなくなり、母校の筑波大学でワークアウトをしながら、自分自身と向き合う時間を過ごした。
そのとき始めたのが、YouTubeでの発信だった。
アメリカで学んだこと、自分が取り組んできたトレーニング、考え方を動画にして伝え始めた。
一緒に暮らしながら撮影を手伝ってくれた弟、編集を支えてくれたズッボンさん。
決して大きなチームではなかったが、「自分のために動いてくれる人がいる」という感覚は、何より心強かった。
ありがたいことに多くの反響をいただき、登録者は2万人を超え、収益化も実現した。無所属期間の生活を支えてくれただけでなく、今でも全国各地でクリニックを行うと「YouTubeを見ていました」「家で子どもと一緒に練習していました」と声をかけてもらう。そのたびに、心が温かくなる。
この経験で強く思った。自分ひとりでできることには限界がある。困難な時期にこそ、信頼できる仲間と力を合わせることで、価値は世の中に届く。
2020年からは、自身の挑戦をより大きく、多方面に広げていくために、アスリートのトータルマネジメント会社と契約した。
アパレルブランド「Playful」を立ち上げ、自分が大切にしてきた“遊び心を持って挑戦を楽しむ”という想いをTシャツに込めた。
三遠時代には栄養士がつき、選手兼スキルコーチとして忙しくなった生活をサポートしてもらった。
また、外国籍選手やコーチ陣とのコミュニケーションを円滑にするため、オンラインで英会話にも取り組んだ。優れたプロフェッショナルと組むことで、自分ひとりでは届かなかった場所に手が届くようになる。
ただ、正直に言うと、その頃の自分は少し迷走していたと思う。マネジメント、税理士、合同会社の設立、アパレル、SNS、YouTube、クリニック。結婚し、子どもも生まれ、生活は一気に忙しくなった。すべて前向きな出来事のはずだった。
しかし、現実はそう簡単ではなかった。コロナ禍で活動が制限され、収入は決して多くなかった一方で、固定費は増えていく。支払いがギリギリになり、お金の不安がプレーに影響した時期もあった。
「今よりもっと良くしていきたい。そのためには何か+のアクションを取らないといけない」
そんな想いで毎日動いていたが、当時の自分は完全にキャパオーバーだったと思う。練習や試合の前後でさえ、別の心配事が頭をよぎる。アスリートとして健全な状態ではなかった。
「チームを作ること=一気にすべてを整えること」
そう思い込みすぎていたのかもしれない。今振り返って思うのは、優先順位を間違えていたということだ。まず整えるべきだったのは、
自分のパフォーマンスを最大化する環境
シンプルに、確実に収入を生む仕組み
この2つだった。
チームを作ること自体は間違っていなかった。ただ、順番が違った。すべてを一気にやろうとせず、「今の自分に本当に必要なチームは何か」を、もっとシビアに考えるべきだった。
「チームは“増やす”ものじゃない。今の自分に必要な順番で“組む”ものだ。」

ここまで振り返って思うのは、アスリートにとってのチームは、所属クラブだけではないということだ。
パフォーマンスを支える人。
キャリアを守ってくれる人。
挑戦を広げてくれる人。
日常を支えてくれる人。
そうした人たちとどう出会い、どう関係を築くかで、できることの幅は大きく変わる。そして、人と人をつないでもらうためには、自分自身の人柄や、日々何に取り組み、どんな想いを持っているかが問われる。
もし今、現役選手として「もっと成長したい」「もっと挑戦したい」と思っているなら、ぜひ「自分のチームを作る」という視点を持ってほしい。
すべてを自分ひとりで抱え込む必要はない。むしろ、ひとりでできることには限界がある。人がやらないことに挑戦し、自分に合った人と組み、環境を整える。それは遠回りに見えるかもしれないが、結果的に一番、自分を前に進めてくれる。
まずは“1人”でいい。自分の課題を言語化できる人(トレーナーでも、先輩でも、税理士でも)を見つけてほしい。第1回で書いた「歴史に名を刻む」という言葉は、こうした人とのつながり、環境づくりの延長線上にあるものだと思っている。
ひとりで戦わない。
チームで、自分の可能性を広げていく。
それが、僕がプロ生活を通して学んだ、最も大きなセカンドキャリアの準備だった。

山本柊輔(やまもと しゅうすけ)
静岡県静岡市出身の元プロバスケットボール選手。ポジションはポイントガード。
清水東高校から筑波大学を経て、2016年に山形ワイヴァンズへ入団。以降は、レバンガ北海道、アルバルク東京、三遠ネオフェニックス、愛媛オレンジバイキングスでプレーしたのち、2022年に熊本ヴォルターズへ加入。 2025年5月に現役引退を発表し、10シーズンのプロキャリアに幕を閉じる。熊本ヴォルターズでは選手兼スキルコーチとしても活躍。華麗なドリブルと意表を突くアシストで知られ、バスケットボールと真摯に向き合う姿勢で多くの人に影響を与えた。
また現役時代から、Youtubeチャンネルやアパレルブランドの運営、静岡バスケットボールドリームプロジェクトの立ち上げなど、多岐にわたる活動にも挑戦。2025年に現役を引退後、トヨタ自動車アンテロープスのアシスタントコーチとして新たなキャリアをスタートした。





