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掲載日:2023.3.1
最終更新日:2023.3.3
「地獄のような日々を過ごして取り戻したFWの原点」 その魂を広めるこれからのデカモリシの在り方
デカモリシの愛称で知られる元サッカー日本代表FWの森島康仁さん。ストライカーの育成に特化した「DMFA(Deka Morishi Fw Academy)」を、2022年4月に静岡県で開校されました。これまでのサッカー人生とその転機、スクール運営に込めた夢を聞かせていただきました。
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INTERVIEWEE
森島康仁(DMFA代表)
interviewer : Daisuke Yamamoto
writer : Rieko Narita
自分を見つめなおした、移籍という転機

―森島さんは選手として多くのチームを経験されました。

 

これまでいくつかの移籍を経験してきましたが、チーム移籍は本当に人生が変わる転機でしたね。もっと慎重に考えるべきだったなという決断もありましたし、試合出場を一番に考えるべきだったのかなという移籍もある。どの選択肢も「全く後悔していない!」と言ったら嘘になります(笑)。

 

サッカー選手としてのキャリアは、セレッソ大阪からスタートしました。僕はセレッソのジュニアユースにいましたが、そこからユースにあがることはできなかったんです。チームを見返すんだという気持ちで滝二(滝川第二高校)への進学を決めたので、セレッソからのオファーはうれしかったですね。

 

-セレッソ大阪の次は、大分トリニータへ移籍されましたね。

 

まあちょっとね、移籍前のこの頃は有名になってちやほやされていました。A代表や五輪代表も経験して、浮ついた自分をコントロールできなかったところがありましたね。

 

3年目の大事な時にも関わらずオフから集中できていなくて、自分の調整も十分ではなかったです。キャンプもケガから入って全然ダメで、試合にも絡めず。一度自分を見つめなおしていろいろ試したのですが、現実はそんなに甘くない。そこで移籍の機会をうかがっていたところに、大分トリニータからオファーがありました。大分には最長の6年半いましたね。

 

大分への移籍は僕にとってよい転機でした。まあ、いろいろありましたけれど…。

 

翌年なら契約満了による0円移籍ができる状態だったところ、それより1年早い2008年に高額の移籍金で僕を獲得してくれました。最初の年はヤマザキナビスコカップ(現:ルヴァンカップ)で優勝したりと順調なスタートでした。しかし、翌年の2009年に大分トリニータが経営破綻となってしまったんです。

 

僕の移籍金に関するセレッソとの取り決めも経営を圧迫することの一因となり、チームもJ2に降格。これで僕は大バッシングを受けることになりました。

 

チーム間の契約のことなので選手には知らされておらず、僕も何も分からなかった。初めての大バッシングでわけもわからず、あの時のことは今でもあまり触れたくはないですね。でも僕の中には、J2に落ちた大分をもう一度復活させたいという気持ちがあったので、そこでJ1昇格を実現できたというのは誇りになっています。

-その後、川崎フロンターレ、そしてジュビロ磐田へ移籍されます。

 

川崎フロンターレへの移籍は僕にとってはかなりのバクチでした。自分の力が通用するのではと、名だたる選手達のいる川崎へチャレンジに行ったものの、結果は出なかった。今思うと自分の力を勘違いしていましたね。

 

そんな時にいくつかオファーをいただき、その中にジュビロ磐田がありました。かつてセレッソで選手として一緒にプレーした名波浩監督から評価されたことがとてもうれしくて、磐田に移籍することを決めました。

 

ジュビロ磐田での2年間は公私ともにいろんなことが重なってしまって、なかなかサッカーに集中するのが難しかったですね。川崎時代の殻も破れていないし、プライドもあって幼かったと思います。自分のことを大事にできていなかったですし、自業自得だなと思いますね。でも、この2年間が今後の自分にとって大事な期間になったとも思っています。

求めたのは、ゴールという結果

-ジュビロ磐田を退団した後の2017年に、当時は九州サッカーリーグだったテゲバジャーロ宮崎へと移籍されました。

 

最初はどこかに移籍先があるだろうと思って過ごしていました。でも、周りの選手たちは次シーズンに向けてキャンプも始まっているのに、僕の前には所属するチームが現れない。「なんで俺だけチームがないねん…」とすごく危機感を持ちました。給料もなくなっていくし、これからどうなってしまうのだろうと焦っていました。

 

移籍先がテゲバジャーロ宮崎に決まるまでの期間は地獄のようで、それでいて今ふりかえると自分としっかり向き合うことのできた、すごく大事な時間でもありました。16年間のサッカー人生の中で、一番のターニングポイントだったなと思います。

 

もう、やるしかない

地域リーグへの挑戦

―これまでのJリーグから一転、地域リーグへの挑戦でした。

 

テゲバジャーロの所属する九州リーグは「一番過酷な地域リーグ」だと聞いていたけれど、本気で上がっていきたいと思っていました。そんな時に、掛川のある服屋さんのオーナーから「地域リーグでは特に結果だけを見られるから、数字に特化してやらないとダメだよね」と言われ、自分でもそれには納得することができたんです。

 

プライドとか過去の功績とかそういったものは捨ててしまって「大事なのは今ここでの結果だ」と、そこに集中したら得点も増えていきました。

 

シーズンが終わってみれば、チームは九州リーグ初優勝、僕はリーグ得点王やMVPを獲得することができました。けれどもいきなりのクビ宣告。僕としては結果を出したつもりだったけれど、正直残念でしたね。「これでも足りないのか」と思ったことをよく覚えています。

 

―2018年に栃木ウーヴァ(現:栃木シティフットボールクラブ)への移籍が決まりました。

 

宮崎での経験を経て、「とにかく点を取ることが自分のサッカー界におけるミッションだ」と明確に意識できるようになりました。

 

関東サッカーリーグは、行ってみるとちょっと驚くほどレベルが高かったですね。そこでも得点を上げられたというのは、自分にとってすごく良い経験になったと思います。当初は栃木で9月引退の話もあったのですが、奥さんが「いや、まだできるよ」と言ってくれて。得点はあげ続けていましたし、ほんとキャリアハイな感じでした。

 

地域リーグで結果を出すことができましたが、そこに至るまでには試行錯誤の連続でした。特に大きく変えたのは、自分のプレースタイルです。それまでは自分のフィジカルを主体としてやっていたのですが、そこに駆け引きや決定力をあげるための思考力をプラスしていきました。

 

その結果、風間八宏さんに教わったゴール前での駆け引きの仕方や、ジュビロでチームメイトだったジェイ選手を見ながら考えていた「決定力を発揮すること」や「ゴールパターンの重要性」を体現することができました。栃木での2年間で、自分のプレースタイルを一新しました。

-これまでの経験がまさしく「花開いた」わけですね。そして最後は藤枝MYFCへ。当時はJ3のチームでした。

 

藤枝の監督が元テゲバジャーロ宮崎の石崎さんで、「石さんのために頑張りたい」という想いを強く持っていました。なにより必要とされることが嬉しかったし、「試合で使うからチームに来てくれ」というオファーだったので、これはもう行くしかない。チームからの熱意を感じることのできたオファーだったこともあり、藤枝MYFCにお世話になることにしました。

 

「地域リーグからJリーグに復帰する」というひとつのモデルを作ることで、他の選手たちの希望になれるのではないかと思ったことも大きな要因でした。

 

藤枝では3年間プレーして、そこで引退を決めました。引退決意の背景には、チームとの契約年数を守ったこと、これからまた移籍先を探すことに積極的になれなかったことがありました。それに、サッカー熱が一気に冷めてしまったんですよね。最後の1年は監督も変わり、自分の起用法も納得のいくものではなくなりました。

 

最後の1年は引退するための1年にしようと思って、引退後のことも意識して動いていた部分もありましたね。

FW専門アカデミーという新たな舞台

―引退後はフォワード専門のサッカーアカデミー「DMFA」を開校されました。この構想は現役最終年から考えられていたのでしょうか。

 

実は引退する3年程前から考えていました。「引退後はサッカーに携わるのが嫌だな」という気持ちもありましたが、フォワード専門だったら絶対やりたいなとも思っていました。

 

だったら自分でやってみようと、スクールを始めることにしました。引退後の活動として、他の選択肢は考えていませんでしたね。だから現役ラストの1年間は、アカデミー設立のために時間を費やそうという気持ちで過ごしていました。

 

いや、もう早くサッカー選手をやめたかったですね(笑)

-近年では日本人のフォワードが減っているように思います。そのような中でFW専門アカデミーの設立。森島さんの強い想いを感じます。

 

アカデミー設立を通して「世界に通用するフォワードを育成したい」という想いが、より強いものになりました。最近は、サッカーをしていてもワクワクする瞬間が少なくなってきていると思います。静岡も「元・サッカー王国」になってしまった。そんななかで、自分が何かのきっかけになれたらいいなと思っています。

 

近年では、活躍する日本人フォワードが減っているように思います。その背景には、日本サッカー全体がファンタジスタ傾向やドリブル傾向となり、僕の時にはなかった指導法が行われていることがあると思っています。もちろん、それを批判するつもりはありませんが。

 

特にファンタジスタ傾向については、本田圭佑選手をはじめ香川真司選手や中田英寿選手など、「点も取るけど中盤にいる選手」が光っていて、特に目に留まりやすい状況になっていると思います。

 

でもよく考えるとサッカーには、芸術点も技術点もなくて、本質は点を取れば結果がついてくるという簡単なスポーツなので、そこに特化してもいいのではないか、というのが自分の考えです。

 

DMFAでは僕が見本を見せるとともに方法論を教えて、生徒たちが自分でできるメニューを基本的にやらせています。ボールに触っていない時間の方が長いのがサッカーなので、そこの考え方もマネジメントできるように指導をしています。

 

また、DMFAの生徒たちの中には「世界で活躍したい」「バロンドールをとりたい」というゴールがあります。そのゴールに向かって何をすべきか、何を考えるべきかということを常に伝えています。

―今の子どもたちを教えていて、森島さんが感じることは何でしょうか。

 

能力の五角形を平均的に育てようという指導が多いように感じています。これは日本の良いところでもあり悪いところでもありますね。能力のバランスが取れた選手が多いし、ボール扱いの巧い選手が多い。でもそれだけではなくて、もっと大事なこともあると思います。

 

例えば、ボールに触っていない時間も大事にしてほしい。それに、もっとガツガツしてもいいのになと思います。今よりもっと要求してもいいと思うし、ミスはカバーし合えばいい。

 

僕に関して言えば、ゴールを決め続けることで人生が変わってきました。「その経験を一緒にしてみないか?」と子どもたちにも問いかけたいですね。点をとる競技のサッカーにおいて、ゴールを決めれば何でもできるようになるわけです。

 

努力はもちろん大事ですが、なんのために努力をするのか、そこを考えてほしいですね。自分のためだけに集中できることって素晴らしいことで、それができるのがエゴイストであり、本当のストライカーだと思っています。こういったFWを育成していきたいですね。

デカモリシの野望とこれから

-最後に森島さんの今後のビジョンをお聞かせください。

 

最終目標はアカデミーの全国展開ですが、静岡のあとは地元関西に広げていきたいです。本店にあたるのが静岡なので、静岡での普及にもさらに力を注ぎます。

 

静岡の皆さんは、サッカーを”知って”いますね。どこに行ってもサッカーの話をしているし、高校サッカーが大好きな人もいる。その熱量がすごいです。今は他の地域ではあんまりないのですが、静岡に来るとデカモリシだと言われることも結構あり、まだこういうのも残ってるんだとすごく嬉しくて、僕のモチベーションになっています。

 

森島康仁(もりしま やすひと)

兵庫県出身。ポジションはFW。
現役時代は”デカモリシ”の愛称で親しまれた。中学時代はセレッソ大阪の下部組織でプレーし、高校はサッカーの名門・滝川第二高校へ進学した。2006年シーズンにセレッソ大阪でプロとしてのキャリアをスタートさせ、以降数々のチームを渡り歩く。これまでに所属したチームは、セレッソ大阪、大分トリニータ、川崎フロンターレ、ジュビロ磐田、テゲバジャーロ宮崎、栃木ウーヴァFC、藤枝MYFC。
2021年シーズンに引退したのち、FW専門のサッカースクールを静岡で開校した。静岡から世界へ羽ばたくFWを育て上げるべく、自身の経験を伝える。

CREDIT
interviewer : Daisuke Yamamoto
writer : Rieko Narita
editor : Takushi Yanagawa
director : Yuya Karube
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