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掲載日:2023.3.1
最終更新日:2023.3.3
海外で奮闘したサッカー人生と歩み始めた経営者への道。多様性の中で生きてきた男が目指す愛される会社
中村祐輝さんは、JリーグではFC岐阜とジュビロ磐田で活躍した元Jリーガーですが、印象的なのは大学卒業後すぐに海外クラブへ挑戦したことです。現役を引退してからは、幼い頃から身近だった家業である中央静岡ヤクルト販売を継ぎ、静岡で最も愛される会社を目指して日々奮闘しています。海外から始まった異色の経歴は、今の仕事にどう生き、今後に何を見据えているのでしょうか?
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INTERVIEWEE
中村祐輝(中央静岡ヤクルト販売株式会社 常務取締役)
interviewer: Daisuke Yamamoto
writer : Moeka Kawai
スーツケース1つで臨んだ海外クラブへの挑戦

―中村さんと言えば、当時では特に珍しい海外クラブへの挑戦を、卒業してすぐに行動に移しているのが印象的です。ためらいや不安は無かったのでしょうか?

 

私は大学を卒業してすぐにルーマニアへ渡り、そこでプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせました。静岡で生まれ育った影響もあるのか、小さい頃からサッカーでの海外遠征を度々経験していたからか、海外挑戦に対してこれといった不安はありませんでした。

 

清水エスパルスのジュニアユースにいた時はブラジルへ行きましたし、高校に入ってからも静岡県選抜の一員としてスペインやイタリアへ行きました。世代別代表での遠征経験もありますし。何より当時はまだ若かったですから(笑)

 

―海外クラブへ挑戦するきっかけになった出来事はあったのでしょうか?

 

サッカー選手としての将来も見据えて進路を考えていた大学4年生の時、すんなりとJリーグに行くことは難しいと考えていました。それで周りとはどこか違う道を探していたというか。いっそのこと海外にチャレンジしてみた方が良いのではないかと、スーツケース1つを持って飛び出した思い出があります。

日本から遠く離れたピッチでキャリアがスタートした。

 

―海外のサッカーと日本のサッカーはどういったところが違ったのでしょうか。

 

東欧のスロバキアやチェコでプレーしていたのですが、「俺を見ろ」と言わんばかりのプレースタイルで、日本と違って個人スポーツに近い感覚でした。そして、誰もが「ゆくゆくはドイツに行きたい、必ずステップアップしたい」という気持ちが強い。

 

試合にはそうしたレベルの高い国からもスカウトが来ていましたから、いかに自分が活躍するか、自分だけが目に留まるかに躍起になっていました。

 

そうした環境なので、当然苦労もありました。言語の壁も最初は大きかったですが、それを乗り越えてからも苦労し続けたのは、ピッチ外でのストレスへの対応でした。

 

特に契約のこじれや給与面のおぼつかなさは、日本と比にならないという現実があります。日本人あるいはアジア系人種への偏見みたいなところも、否応なしに経験させられました。

海外挑戦を経て、武器となったもの

―帰国後はJリーグでもプレーされましたが、30歳のとき(2017年)に現役引退を決断されました。サッカーを辞めようと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

 

元々、自身の人生ビジョンに32,33歳で現役を引退しようというのがありました。それが少し早まった理由としては、静岡に戻ってくることができたからですね。

 

服部年宏さんとのFC岐阜時代の縁もあり、ジュビロ磐田という地元のクラブに移籍し、最終的に2年間在籍することができました。次はどうしようかなと考えていたところ、国内外から複数のオファーをいただきました。

 

ただ、地元から離れた地域の話が出るたびに「遠いな」と思ってしまっている自分がいたんです。元を辿ればサッカーをするために海外まで躊躇なく渡った自分なのに。そこで初めて、サッカーから気持ちが離れていることに気が付きました。

現役生活の最後は地元静岡のクラブに。

 

―そこから家業の中央静岡ヤクルト販売株式会社へ活躍の場を移されたわけですね。

 

私にとってヤクルトは小さい頃から身近な存在でした。きっと周りの人からも私は「ヤクルトの人」みたいに認識されていたんじゃないかな(笑)。

 

家の冷蔵庫を開ければ必ずヤクルトが入っていましたし、両親の仕事の話も耳に入ってくる。道端でヤクルトレディさんを見かければ挨拶をしに行ってしまう。それほど親しみがありましたから、サッカーを辞めてヤクルトに入るのは自分のなかでは自然な流れでしたね。

 

とはいえ、ビジネスの世界に飛び込むのには、戸惑いや難しさもありました。ビジネスマナーや営業の基礎基本といったことは、自分よりもずっと若くていい大学を出ている同期たちと同じスタートラインに立つ必要があります。

 

一方で、サッカーの世界でやってきたこと、“コミュニケーション”の部分は周りと違う武器になると感じています。特に自分の場合は、バックグラウンドや出身の違う人たちとたくさんのコミュニケーションを取ってきました。

 

海外挑戦のなかで言葉の壁には何度もぶつかりましたが、どんな状況であれ、自分の伝えたいことを言語化できなければ当然相手にも伝わりません。こうした経験もあり、ビジネスという不慣れな環境においても、自分の伝えたいことを知って正確に言語化しようとする姿勢は常に意識していました。

―確かにコミュニケーションの大切さは、スポーツでもビジネスでも共通しているかもしれません。

 

海外での苦労を経験した分、日本ではすぐに聞きたいことが聞けることへの有難みを感じていました。海外での言葉の壁を経験したからこそ感じたのですが、言葉が通じるなら分からないことは絶対に聞いて、アドバイスやフィードバックを貰った方がいい。

 

Jリーグでプレーしていた時も、先輩に「さっきのプレーはどうでしたか?」などと積極的にアドバイスをもらいにいってましたし、素直に受け止めるように心がけていました。

 

ビジネスの場に移ってアスリートが課題に感じることを挙げるとするなら、それは「プライド」とどう向き合うかということかもしれません。自分で頑張ってきたからこそ謙虚になれない、アドバイスを受け止められないということもあると思います。

 

ただ、サッカーでどれだけのキャリアを築こうとも、ビジネスの世界でそれが全て通用するわけではない。ビジネスの世界にはすごい人がたくさんいます。それをわきまえていたからこそ、とにかく謙虚に、そして素直に仕事と向き合うことを大切にしてきました。

サッカーをプレーする「先」にある目的をビジネスの場でも感じられるように

―ヤクルトに入社されてからはどのようなお仕事をされているのですか?

 

引退した数か月後に、まずは株式会社ヤクルト本社(注1)に入社し、東京勤務となりました。そこでは販売戦略などを立案する宅配企画課に配属されました。そこから中日本支店への赴任も経験させていただきましたが、その2年目には店長を志願しました。

(注1)株式会社ヤクルト本社は、日本の乳酸菌飲料品メーカー。中央静岡ヤクルト販売は、静岡市、富士市、富士宮市、沼津市原地区を販売エリアとしているヤクルトの販売会社。

 

中日本支店の支店長に「現場の最前線を経験させてくれませんか」とお願いをしたところ、快諾していただくことができました。店長の仕事でメインになるのは、ヤクルトレディさんを輝かせること。ヤクルトレディとして働かれている方達は、多様性に富んでいます。

 

働く時間への制約や希望収入などが各々異なる中で、いかに働きやすい雰囲気をつくり、楽しく仕事をしてもらえるか。ここでも大事なことはコミュニケーションでしたね。

そこで具体的に心がけていたことは、やはりコミュニケーションです。サッカー選手でいうところの「あのシュートすごかったね」みたいな感じで、オフザピッチも含めた声掛けが重要だと考えていました。

 

例えば「最近数字伸びてるけど、どんな工夫をしているの?」といったような会話をすることで、業務上の無機質なコミュニケーションにならないようにしています。

 

様々なバックグラウンドを持った人たちが働いているなかで、仕事だけではその人への理解は深まりません。サッカーでもピッチを降りたあとの何気ない会話からチームメイトのことがわかるのと同じです。組織でのコミュニケーションの取り方は、サッカーという団体競技の中で学んでいたんだと実感しました。

―現在は中央静岡ヤクルト販売の経営に関わっておられますが、とくに数字を求められる立場かと思います。目標設定の方法は現役のときと比べて変化があったのでしょうか。

 

サッカーでもビジネスでも、「具体的な数値目標を掲げる」ということは目標設定の部分で共通しています。それがゴール数なのか、売上なのかの違いくらいしかありません。漠然と練習していても結果は出ないように、仕事も目標から逆算した明確な計画と具体的なアクションが求められます。

 

ただ1つ違うとすれば、選手のときのプロセスがほとんど自分の中で完結していたのに対し、会社では組織単位での逆算思考が求められます。仕事はみんなで成果を挙げるものですからね。

 

目標設定の方法で変わったとするなら、個人での目標から組織全体での目標に意識を変えたことでしょうか。この辺りの逆算思考は、アスリートなら得意だと思いますし、次の舞台でも活かせるものだと思います。

―中村さんのお話を伺っていると、アスリートからビジネスマンへ転身されてからも、これまでの経験を活かしつつ究めていこうとする姿が印象的です。現役を引退してから、これまでのようにのめり込めるものを見つけられないアスリートもいるかと思うのですが、その辺りはどう考えていますか?

 

私はアスリートの時も今でも「楽しい」と思えるものを追求することを心がけています。そして仕事とは、「人に喜んでもらうこと」だと考えています。この「喜んでもらう」ことを体感できることが、仕事に熱中するための第一歩だと思うのです。

 

選手のときには勝利を届けることでファンやサポーターに喜んでもらったり、サインやハイタッチを通して彼らと「楽しい」を分かち合っていました。

 

ヤクルトに来てからも、働いている人の「ここで働けて良かった」という声や、ヤクルトをご愛飲いただけた時の喜びを分かち合えることが力になっています。こうやって自分の大事にしているものと同じような感覚をどこで見つけるかということが大事かなと思います。

 

サッカーそれ自体を目的にしてしまうと、サッカーを辞めたときに「何をやろうか」と私も悩んでしまったかもしれません。私は家業があったという点で恵まれていたと思いますが、そうでなくても自分にとっての「楽しい」を見つける努力と、そのことに気づかせてくれる存在と出会うことが大切だと感じています。

ファンの多い「静岡で一番愛される会社」を目指して

―今後に向けて描かれている夢やビジョンをお聞かせください。

 

私たちは今「静岡で一番愛される会社」ということを企業ビジョンに掲げています。以前はヤクルト業界で日本一になる、と心に決めていたのですが、今はそれ以上に、この静岡という土地で愛される・応援されることを大切にしています。そのために地域の人にとっての「健康応援おもてなし企業」になりたい。

 

「ヤクルトで働いています」と言ったら「いい会社だよね」と返してもらえるような、ファンの多い会社になることを目指しています。そして、今以上に「静岡に住みたい、働きやすい」と思ってもらえる環境づくりをしていきたいですし、さらにそれを発信していかないといけないと思います。

 

いいものがあるなら、それを伝えることですこの“伝える力”というのも今後は自分も含めて心がけていきたいですね。

中村祐輝(なかむら ゆうき)

1987年6月4日生まれ。静岡県出身の元プロサッカー選手。ポジションはFW。
中学2年生時に清水エスパルスのジュニアユースに入団。その後、静岡県立藤枝東高等学校に進学し、1年時から全国高等学校サッカー選手権大会にも出場。国士館大学を卒業後は、ルーマニアへ渡り、CFRクライオバでキャリアをスタートさせる。その後はチェコ、スロバキアといった東欧のチームを渡り歩く異色の経歴を持つ。2013年に帰国し、JリーグではFC岐阜、ジュビロ磐田に所属した。183㎝の強靭なフィジカルを生かした空中戦を得意とし、身体を生かしたポストプレーにも優れていた。2017年に現役を引退。その後家業である、中央静岡ヤクルト販売株式会社に入社。「静岡で一番愛される会社」を目指し、日々邁進している。
<所属クラブ>
ルーマニア:CFRクライオバ
チェコ:FKヴィクトリア・ジジュコフ
スロバキア:FK ボドゥバ・モルダヴァ → MSKリマフスカ・ソバタ
日本:FC岐阜 → ジュビロ磐田

CREDIT
interviewer: Daisuke Yamamoto
writer : Moeka Kawai
editor : Takushi Yanagawa
director : Yuya Karube
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