プロ生活9年。これは高卒プロの中でも比較的長いキャリアを歩んだと言っていいだろう。出場もJ1で35試合4得点、J2で170試合22得点と結果も出している。
しかし、人々の記憶は華やかな高校時代と20代前半で止まってしまっている人も多いのが事実だろう。それは本人も自覚している。
「僕なんてもう誰も覚えていませんから。もう消えた存在です」
この言葉に謙遜という文字は当てはまらない、客観的に見ても事実であった。それは彼が話していく本音の数々で明らかになっていく。
なぜ彼の『サッカー選手として』の人生は先細りしていったのか。同時に今の彼はかなり充実した日々を送っているが、その間にどんな境遇・人生があったのか。まずは彼のサッカー選手として華やかだった時代を振り返っていく。
1987年4月27日に滋賀県近江八幡市で生を受けた青木は、地元でサッカーに打ち込み、中学時代は技巧派集団だったセゾンFCでプレーをした。当時のセゾンFCを率いていた岩谷篤人監督が、ちょうど青木たちが高校1年生になるタイミングで野洲のコーチに就任することとなった影響で、セゾンFCの主軸たちがこぞって野洲に進学。青木もその一人だった。
「最初僕はセゾンのOBが多く進む静岡学園高に行こうと思っていたのですが、岩谷さんの話を聞いて野洲を選びました。岩谷さんについて行ったら絶対に上手くなると思っていたので、僕を始めみんな迷いはなかったと思います。正直、1年の頃から『このメンバーなら絶対に全国制覇できる』と思っていました」
実際にこの思いは現実のものとなるが、そこに至る道のりは決して平坦ではなかった。青木は1年時から試合に起用されるも、2年生まではインターハイ、選手権ともに県予選敗退。最高学年になった6月のインターハイ予選でも準々決勝でまさかの敗戦を喫するなど、全国は遠かった。
しかし、彼らに悲壮感はなく、むしろ自分たちが積み重ねていることへの自信があった。
「結果は出なかったのですが、練習試合とかで全国の強豪校やJクラブと戦っても『十分やれる』と言う手応えはあった。他のチーム云々よりも楠神順平(現・南葛SC)や乾貴士(現・清水エスパルス)など仲間たちの技術レベルは高かったし、チーム内の競争や紅白戦のレベルが凄まじく高かった。
みんな個性的だったけど、みんながみんなを認めていると言うか、リスペクトをしていると言うか、『こいつにはこの部分では勝てない』と思う部分があったので、切磋琢磨できるチームでした。だからこそ、みんなの中で『県予選を突破さえすれば結果を出せる』と信じることができていました」
最後の大会となる第84回大会で滋賀県を制したことで、この自信は確信へと変わっていく。前述したとおり全国では相手をずば抜けた技術と流れるような連動性で翻弄し、観ている者を魅了する『セクシーフットボール』を展開。エースストライカーだった青木も、ジェフユナイテッド千葉内定選手として大きな注目を集め、一気に全国区の選手へと成長を遂げていった。
鳴り物入りでジェフに加入すると、1年目から出番を掴み、これまで縁のなかった年代別日本代表にも選出。そこで槙野智章、内田篤人、柏木陽介、森重真人、香川真司ら後に『調子乗り世代』と呼ばれるタレントたちと一緒になった。
「みんな本当にうまかった。特に陽介はめちゃくちゃうまくて驚きました。でも、みんなあれほどの実力者なのに人間性が素晴らしくて、新参者の僕をフランクに受け入れてくれたので本当にやりやすかった。ミチ(安田理大)が真っ先に絡んできてくれて、そこから槙野、陽介が続いてきてくれた。野洲とはまた違う個性的で切磋琢磨できる最高の環境でした」
プロ1年目のAFCU-19選手権(U-20W杯アジア最終予選)のメンバーに選ばれると、勝てばU-20W杯出場権を獲得できる準々決勝のサウジアラビア戦で延長戦に劇的な決勝弾を叩き込み、世界の扉をこじ開けた。
そして翌2007年、U-20W杯にも出場すると、奇抜なゴール後の全員パフォーマンスで日本だけではなく、開催地カナダでもムーブメントを起こし、『調子乗り世代』と名付けられて人気を博した。
そこから多くの調子乗りたちが所属チームで主軸となってJ1リーグでの活躍をしていき、その中でも内田、槙野、香川、森重らがA代表としてW杯に出場をし、他にもA代表入りや海外でプレーする者も多かった。
しかし、その一方で青木はU-20W杯を境に徐々にその名を聞かなくなって行った。プロ4年目の2009年途中からJ2のファジアーノ岡山に移籍をしてからは、J2ではコンスタントに出場機会を得るが、J1でのプレーは2008年シーズン以降一度もなかった。
「野洲時代の仲間や調子乗り世代のみんながA代表に入ったり、J1でバリバリやったりしていたのに、僕の主戦場はいつまでもJ2。物凄い勢いで置いてかれている感じは常にあった。『俺はみんなと違って正しいレールに乗れなかったんだ』と自己嫌悪に陥ることもあった」
どんどん膨らんでいく劣等感。最後はザスパクサツ群馬で2年間(2013、2014シーズン)レギュラーの座をガッチリと掴むが、「ずっとJ1復帰を目指していたけど、『これ以上頑張っても無理なんじゃないか』と思うようになった」と選手としての限界を感じた。
そして「最後の挑戦」と2014年シーズン終了後にタイに渡り、移籍先を探すも見つからなかったことを区切りとして、帰国後の2015年1月に引退を発表した。
「若いうちにセカンドキャリアに進まないと将来苦労すると思った。いつまでもプロにしがみ付いてはいけないなと思って、自分で自分のプロキャリアに納得するために最後に海外挑戦をしたので、もうスパッと止めることができた」
一見、堅実な考えのように見える。もちろん彼はプロサッカー生活の後の人生の方が長いことは理解していたし、見切りを早くつけて社会に出て順応していくことで、自分の新たな人生が切り開けると思っていた。だが、実際に社会に出ると、それが甘い考えであり、予想以上に自分の居場所を見つけることが難しく、苦しい道だったことを痛感していくことになる。
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青木孝太(あおき こうた)
滋賀県出身の元プロサッカー選手。ポジションはFW。
2005年の第84回全国高校サッカー選手権大会で、当時2年生だった乾貴士を擁して『セクシーフットボール旋風』を巻き起こし、初優勝を飾った野洲高校のエースストライカーである。高校を卒業後の2006年にジェフユナイテッド千葉へ入団。その後、ファジアーノ岡山、ヴァンフォーレ甲府、ザスパクサツ群馬を渡り歩き、2014年シーズンをもって現役を引退した。
引退後はサッカー界から離れ、一般企業に就職。2020年より親族経営の電気工事会社に入社。電気工事士として従事している。