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掲載日:2023.10.25
最終更新日:2023.10.25
【前編】他者を知り、己を知る。次のゴールを決め続ける吉原宏太のプロフェッショナルとしての土台とは
吉原宏太、元プロサッカー選手。第74回全国高校サッカー選手権大会で活躍し、脚光を浴びた彼は、17年に渡るプロ生活において優れた得点感覚と前線からの積極的な守備で活躍した。引退後は引退後はプロ生活を始めた北海道に居を移し、北海道コンサドーレ札幌のスクールコーチとして小学生の指導にあたる傍ら、クラブ応援番組のMCや解説、そして起業を経験。現在は自身のストライカースクールを始め、複数の事業のコンサル、マネジメントをするなど、経営者としてその手腕を発揮している。今回は、彼がセカンドキャリアに移行するときに土台となった『十代の経験』と『人付き合い』、その内実にスポットを当てながら、彼のサッカー人生、経営者人生はどのようなものだったかを確かめていこうと思う。
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INTERVIEWEE
吉原宏太(T2プロモーション株式会社 代表取締役)
interviewer / writer : Takahito Ando
高校生が『選手権は就職活動の場』だと言い切った

「選手権は就職活動の場だと思っています」

 

はっきりとしたコメント、そして吉原宏太という名前を聞いてピンと来たサッカーファンは多いだろう。今から28年前の第74回全国高校サッカー選手権大会で初芝橋本高校(和歌山)のエースストライカーとして大活躍を見せ、ベスト4と得点王に輝いた選手だ。

 

大会中、上述のように言い切っていたことも話題性を大きくし、卒業後の1996年に当時JFLだった東芝サッカー部から名前を変えたばかりのコンサドーレ札幌への加入を手にした。

そこから札幌の歴史と共に歩んだ吉原は1998年にJリーグ昇格を果たしてJ2リーグで2シーズンプレーすると、2000年にJ1のガンバ大阪に移籍をし、6シーズンプレー。

 

2度の2桁ゴールなど、G大阪のストライカーとして活躍したのちに、当時J1の大宮アルディージャで3シーズン、J2の水戸ホーリーホックで4シーズンをプレーした2012年を持って現役を引退した。

 

そんな吉原がサッカーに夢中になったときはまだJリーグが存在せず、トヨタ自動車、日産自動車、読売クラブなどの企業クラブがメインとなった日本サッカーリーグしかなかった。それゆえに多くのサッカー少年達は国内よりも海外を目指す傾向にあった。

 

筆者も吉原と同じ年齢ゆえに分かるのだが、週末に見る『ダイヤモンドサッカー』というテレビ番組が世界サッカーを知る唯一の機会で、吉原自身も「毎回食い入るように見ていたし、プレゼント応募をしてバスタオルとタオルが当選した記憶があります(笑)」と画面越しに見る世界のサッカーに強烈な憧れを持っていた。

 

吉原が中学生になる頃にJリーグが誕生し、多くの選手がJリーグを目指すようになった。そして、吉原もそのうちの1人だった。

 

中学時代、当時大阪で1、2を争う力を持っていた南河内選抜に入っていた吉原は、仲間達と共に「和歌山から選手権に出よう」と隣県の初芝橋本高校への進学を決めた。吉原の代が中心となってメキメキと力をつけていった初芝橋本は、徐々に全国で結果を残せるようになっていった。

 

彼らが高校3年生になると、1学年下に岡山一成がいるなどタレント集団として徐々に注目を集めるようになり、全国でも上位を狙える戦力を有していた。

 

その一方で、吉原自身の卒業後の進路は一切決まっていなかった。強烈なプロ志望を持つ彼だったが、高校2年生の時に関西圏のJリーグクラブの練習へ片っ端から参加するも、ひとつもオファーをもらうことができなかった。

強烈なプロ志望を持つも、オファーは届かなかった

 

「僕の中で大きかったのは、両親が『宏太が30歳になるまではプロを目指して全力を尽くしていいよ』と言ってくれたことです。その言葉に背中を押されて、高3になり誘いを受けていた大学を全て断って、当時松木安太郎さんがやっていたアルゼンチン留学のセレクションを受けに行ったら、1番に合格をもらえたんです。

 

でも、やっぱり僕はJリーグに行きたいと思っていましたし、選手権への出場権を掴んだ時から、『俺たちなら国立まで行ける』と手応えを感じていたので、『ここで最後のアピールを全力でしてやる』という野心だけで『就職活動の場』と公言したんです」

 

これまでの選手権といえば、多くの選手が『優勝したい』『国立競技場でプレーしたい』『将来日本代表に入りたい』『お世話になった人たちに恩返しをしたい』『地元の人に喜んでもらいたい』などと、大人が喜ぶようなフレーズを口にしてきた。だが、吉原が放った言葉は時には利己的にも映り、良い意味でも悪い意味でも大きな反響を生み出した。

 

賛否両論ある中で、同い年の筆者はこの大会をリアルタイムで見て、ここまではっきりとした自己表現を行い、プレー外の注目を浴びてしまっている状況でも次々と結果を出す彼に衝撃と尊敬の眼差しを送った。

 

ゴール前での鋭い動き出しとシュートで得点を積み重ねた彼は、冒頭で触れた通り得点王とベスト4を手にして、一躍選手権のスター選手となった。

 

だが、吉原の進路はJリーグではなく、これからJリーグ入りを目指すJFLのコンサドーレだった。あれだけセンセーショナルな活躍を見せてもJリーグには届かなかったことに私はショックを覚えた一方で、彼に対する「口だけの選手だった」という批判を耳にして怒りを感じたことを覚えている。

 

「今思うと若気の至りだなと思いますし、正直引くに引けなくなった部分はあります。周りからはビッグマウスのように捉えられてしまったと思いますが、僕の中では極めて冷静でした。選べる立場ではないからこそ、チャンスをくれた場所で一生懸命にやろうと覚悟は決まっていましたから」

 

そう吉原が振り返ったように、彼は口先だけでそう言っているのではなく、本気でチャンスを創出し、そのチャンスを掴み取ろうという覚悟を持っていた。だからこそ、コンサドーレにチャンスをもらったときに迷うことなく加入を決め、そこから着実にJリーグのトップスター選手になるまで這い上がっていくことができた。

 

話をプロ1年目に戻すが、プロ選手と東芝の社員選手が入り混じったコンサドーレでJFLからスタートをしたことが、彼の人生において非常に大きな意味を持っていた。

プロフェッショナルのサッカーの向き合い方、社会の礼節と節理を同時に学んだコンサドーレ時代

高卒プロ1年目で彼が経験したことのうち、いったい何が今のビジネスマン吉原宏太としての人生の糧になっているのか。そこに前編の中核となる学びがある。

 

彼がコンサドーレに加入した当時、シーズンスタートを神奈川県で迎えた。まだ実質「東芝サッカー部」の名残があり、当時の在籍選手は40人ほどで、そのうち半分が吉原を含めたプロ契約選手で、残りの半分が東芝の社員選手だった。

 

名のあるプロ契約選手は1人暮らしをしていたが、吉原を含めた若手選手数名は神奈川県にある東芝の社員寮に住み、全員が磯子市にある東芝のグラウンドで練習に励むという環境だった。

プロ契約選手も社員寮で暮らした(写真はイメージ)

 

「1996年のJFLが始まるあたりで『クラブ名はコンサドーレで決まったよ』と聞いていたのですが、あまり北海道のチームという実感がわかなかったんです」

 

吉原は毎朝、同じ寮に住む東芝の社員選手の車に乗せてもらい練習に通っていた。そこで彼が感じたのは社員選手の規則正しさと上下関係だった。

 

「日常生活で言えば寮の中での立ち振る舞いで、先輩に失礼な態度を取ってはいけないですし、食事や朝の練習で送ってもらう時も遅刻は絶対に許されず、5分前行動をしっかりと取らないといけない。こうした礼節はプロサッカー選手だけがいるJクラブではあまり教えられないと思います」

 

だが、その一方で「社員選手の人たちは社会人としてのあり方はしっかりしていますが、サッカーという面では勝負どころで怯んでしまったり、プレー面での甘さが出てしまったりしていた」とデメリットの部分も目の当たりにした。

 

それはプロ選手でも同じだった。プロ選手を見れば、礼儀は正直そこまでよくないし、自由奔放なプライベートを過ごしている選手もいた。だが、サッカーになると途端に人が変わったように球際の激しさや勝負への執着心を一気に表に出してプレーする。

 

「プロ選手からは『勝ちに行くためには、先輩だろうが後輩だろうが関係なく強く言うべきところは言って、要求すべきところは要求する』姿勢を学びました。社員選手を相手にそれを僕のような新人がするとその場の空気が変になったり、その後の関係もギクシャクしたりするものです。

 

しかし、プロ選手はピッチから離れたらそんなことは一切気にせず、引きずらずにフラットに接してくれる。この両方のメリット・デメリットを高卒1年目で目の当たりにできたことは、より自分を客観的に見る、違う視点で見つめ直すという点で物凄く大きなプラスとなりました」

 

プロの世界と社会人の世界はまた別物。両方を同時に経験することは非常に難しく、プロの世界に長くいればいるほど、セカンドキャリアでいざビジネスの社会に移行するときにそのギャップに戸惑い、順応するまでに時間がかかる。

 

「高校を卒業していきなりプロ選手になると、ある程度お金をもらうことができますし、チヤホヤもされる。ある意味、好きなことだけを一生懸命やっていればいい環境に身を置くことができるんです。

 

でも、自分が17年間のプロキャリアを重ねていく中で、十代のうちに中途半端にお金をもらって金銭感覚が狂ってしまったり、天狗になって横柄な態度を取ったり、勘違いしてしまう選手を何人か見てきた。それを目の当たりにするたびに、自分は社員の方がいたからこそ、そういう面に対してきちんと自制を働かせることができたんです。貴重な環境だったなと痛感します」

 

別の媒体でインタビューをしたときに、吉原はコンサドーレにまつわる思い出話において「バスでスタジアムに行くときに、イヤホンをしたり、カーテンを閉めたりするのではなく、全てを全開にして周りの景色、音、サポーターの姿や表情を感じながらスタジアム入りをするのが大好きでした」と話していた。現役中にずっと続けていた、彼にとって大事なルーティーンもまた、彼が社会人としての配慮を学んだことで生まれたものだった。

 

「もし僕が他のプロクラブに入っていたら、移動中のバスでイヤホンを耳に当てて音楽を聴いたり、外から見られないようにカーテンを閉めたりして、自分の世界に籠もっていたと思います。

 

それもプレーに集中する、自分に集中するという意味ではありだと思うのですが、1年目の僕はそれができない環境でもありました。もし僕が1年目のバスの中でイヤホンをつけて音楽を聴いていたら、社員選手が話しかけたのに気づかなかったり、聞き直したりするかもしれなかった。それは目上の人に対して失礼に当たるし、それは許されないことだと教えてもらいました。

 

正直、最初は怒られないようにするために気を遣って行動していました。ですが、意外とバスの中にいる他の選手の会話って、他愛もない話もあるのですが、中にはかなり学びになったり、発見につながったりする話もあるんです。自分にとって有意義な会話に耳を傾けるようになってから自分の知見が広がりました。

 

バスの座席も最初は気を遣って一番前にしていたのですが、途中からは真ん中の、より四方八方から会話が聞こえる場所に意図的に座っていました」

 

礼節を弁えながら、自分にプラスになる発信を受け取るためにアンテナを高く張る。これを日常化していくうちに、徐々に窓の外にも目がいくようになり、スタジアムに向かうサポーターたちや、バスに気付いて手を振ってくれるサポーターたちの表情や様子を見ることが当たり前になっていった。

 

「スタジアムに行くまでの北海道の雄大な自然と、温かくも熱いサポーターの人たちを見るようになって、それが僕のルーティーンとなりました。窓から見える景色は自分のモチベーションやサッカーをする意義を認識するために非常に重要で、次第に大好きな光景になっていったのです」

 

サポーターの姿を見れば見るほど、それぞれの人たちにストーリー性を感じるようになり、「試合を楽しみにしていのだな」「コンサドーレを通じて親子の絆を深めているのだな」「仲間内と楽しい時間を過ごしているのだな」と思うようになったことで、改めて自分がここでサッカーをする意義を再認識するようになった。

 

「プロサッカー選手としてのあり方、社会人としてのあり方、そして自分自身は何のためにサッカーをやっていて、何にモチベーションと喜びを見出しているのか。それを1年目から複数の視点で学び、自己認知できたことが選手としても社会人としても大きく成長できた要因だと思っています」

 

早い段階で土台を築けたことで、彼は冒頭で触れた通りJFLからJリーグ、J2からJ1リーグへと這い上がり、最終的にはプロ17年、Jリーグ通算358試合出場(うちJ1・228試合、J2・130試合)、91ゴール(うちJ1・58ゴール、J2・33ゴール)という偉大な成績を残し、人々の印象に残るJリーガーの仲間入りを果たした。

 

吉原はこの17年間のプロ生活において、1年目で学んだことをどう活かして厳しいプロの世界を渡り歩いていったのか。中編では彼独特の『人間関係の築き方』について話してもらった。

 

中編はこちらからご覧ください。

吉原宏太(よしはら こうた)

大阪府藤井寺市出身の元プロサッカー選手。ポジションはFW。
コンサドーレ札幌でプロキャリアを踏み出し、ガンバ大阪、大宮アルディージャ、水戸ホーリーホックへの移籍を経験した。2012年に引退、17年間に渡る現役生活に終止符を打った。
引退後は北海道コンサドーレ札幌のスクールコーチとして小学生の指導にあたる傍ら、クラブ応援番組のMCや解説、新会社を立ち上げ代表取締役を務める。現在は自身のストライカースクールを始め、複数の事業のコンサル、マネジメントをするなど、経営者としてその手腕を発揮している。

CREDIT
interviewer / writer : Takahito Ando
editor : Takushi Yanagawa
director : Yuya Karube
assistant : Naoko Yamase
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