福元洋平の人柄を言葉で表すと『実直で誠実』。高校時代から落ち着いたトーンの口調で、取材をしていても常に全体を冷静に見つめて、細かな部分まで配慮した発言するような選手だった。
プレーもCBとして冷静で、状況を把握しながら背後のスペースのカバーリングやラインコントロールを手がけ、コーチングも的確。選手としても人間としても周囲から信頼を寄せられる存在だった。
温和で実力者で人格者。だからこそ、底抜けに明るい性格を持つ槙野智章、柏木陽介、安田理大、太田宏介に加え、クールな内田篤人、大人し目だった香川真司など超個性派揃いの選手たちも、彼に一目を置き、リーダーとして絶大な信頼を寄せていた。
当時、キャリア的にも彼は一歩抜きん出た存在だった。大分トリニータユースでは1学年上の西川周作、梅崎司と共に守備の要として活躍すると、トップチームの監督に就任したペリクレス・シャムスカ監督の目に留まり、いきなりスタメンCBに抜擢。高校3年生にしてJ1リーグへの華々しいデビューを飾った。
今でこそ高校生がJリーグに出場をするのは珍しいことではないが、当時は稀有な存在として一躍注目を集めた。
調子乗り世代のキャプテンとしてチーム立ち上げ時からチームを牽引し、槙野との不動のCBコンビを形成しながら、2006年のインドAFCU-19選手権ではU-20W杯出場権獲得とアジア準優勝に貢献。翌年にはU-20W杯でベスト16に導いた。この時期、J1を戦っていた大分ではレギュラー定着とはいかなかったが、高校3年生、プロ1年目、2年目の選手としてはコンスタントに出番を得ていた。
そして、2008年にガンバ大阪に期限付き移籍をするが、ここで壁にぶち当たった。分厚い選手層の前に弾かれ、リーグではわずか5試合しか出場することができず、翌年にはジェフユナイテッド千葉に移籍。この頃から彼の中でステップアップをしていく槙野や柏木、森重、内田、香川らとの差を感じ始めたという。
「もともと自分が上とは思ってはいませんでしたが、自分のサッカー人生が右肩下がりになっているとは感じました。高校生Jリーガーとして注目を浴びてからだんだんと試合に出られなくなって、同い年で大分でチームメイトだったモリゲ(森重)がボランチからCBにコンバートする話が出て。『ポジションを奪われるんじゃないか』と不安になったらそれが的中して…。
自分の中で何かを変えたくてガンバに移籍をしたのですが、そこでも出られなくなった。千葉の辺りから自分のイメージ、自分の本当の実力、置かれた現実がバラバラになったように感じて、心と体のバランスが崩れていく感覚に陥りました」
焦りもあった。引き離されたくないという思いもあった。それは彼の真面目で実直な性格も大きく影響していた。
「僕は『調子乗り世代のキャプテン』でありながら、注目を浴びている時期に自分があまり調子に乗らないようにと思いながらやっていたのですが、逆にそれが自分自身に変な歯止めをかけていたと今となっては思います。本当はもっとみんなのようにアグレッシブにやりたいけど、無難でリスクの少ないプレーをすることで安定感を出したいというか、バランスを取る方向に行ってしまった。でも、今思うとそれも僕の実力でした」
『自分らしさとは何なのか?』
現役期間中、常に彼の心の中にはこのモヤモヤがあった。周りから『優等生』、『真面目』という印象を持たれると、それに合わせようとしてしまう自分がいることに共感する人は多いのではないだろうか。周りの調子乗り世代の選手たちのように自分自身を解放しながら、時にはエゴイスティックに、時にはがむしゃらに前に突き進めば、もしかしたらもっと違うキャリアがあったかもしれない。
千葉で3シーズン過ごした後の2012年にJ2の徳島ヴォルティスに移籍をすると、2013年シーズンにはJ1昇格に大きく貢献し、2014年シーズンでは1年でのJ2降格となったが、J1でキャリアハイの26試合出場を果たした。
「ジェフでは結果を出したい、周りにこれ以上引き離されたくない、日本代表に入りたいと思いすぎていて、貴重なプロサッカー選手としての時間を楽しめていない自分がいました。
ヴォルティスには実質拾ってもらった形で入ったので、もう一度サッカー選手として自分が心の底からサッカーを楽しまないといけないと思えたんです。初心に返ることでヴォルティスで充実したシーズンを送ることができたのですが、そんな自分を追いかけてしまったことで最後の2年間はまたサッカーが楽しくないというか、苦しくなっていったんです」
J2降格後の2シーズンは徳島で主軸として活躍し、2017年にJ2のレノファ山口へ移籍。移籍初年度こそコンスタントに出番を得たが、2年目は怪我もあり、一気に出番がなくなった。J2リーグ出場はわずか1試合にとどまり、翌2019年はJFLのヴェルスパ大分に移籍。このシーズンをもって現役を終えることとなった。
「レノファを出てヴェルスパに行く時は、このままサッカー選手としてフェードアウトしていくのが嫌だったし、家族にもっとサッカーをしている姿を見せたかったので、『ここで頑張って、もう一度Jに戻ろう』と思っていました。でも、もう僕の膝は限界を迎えていました」
膝の軟骨がすり減ってなくなっている状態だった。強度を上げてプレーすると水が溜まり、血栓ができて痛みを発症する日々。地元・大分に戻ってきたにも関わらず、ほとんどの時間をランニングやリハビリに当てざるを得なかった。
「10月くらいに全体練習をやっている横を走っている時に、ずっと同じ景色ばかり見ている自分に対して成長できていない、胸を張ってプロ選手とは言えないなと思い『もうやめよう』と決めました」
2019年シーズンを持って14年に渡るプロキャリアに終止符を打った。しかし、華々しく引退したわけではない。JFLでひっそりと引退した自分にセカンドキャリアは何ができるのか。いざ本気で次の仕事を考えようとするが、漠然としたものしか思い浮かばない自分がいた。
プロサッカー選手という立場が長かったため、周りには会社の社長や地域の有力者などの知り合いは多い。そこに福元の実直で真面目な性格も影響して、様々な企業から誘いを受けることはあった。かつてプレーをしたJ2の複数クラブからもスクールコーチや地域貢献活動などの仕事のオファーもあった。
だが、実際に経営者と会って話をしても、そこで自分に何ができるか、何を目標にすべきかが定まらない。「数年先のビジョンが見えなかった。Jクラブをクビになった経験があるからこそ、また仕事がなくなってしまう怖さを感じていた」と安易にサッカー界の仕事を選ぶ気にもなれなかった。しかも、自分には悠長に考えている時間はない。早く次を決めないと、引退してからしばらく無職という状況は家計的にも避けなければならない。
「プロサッカー選手は輝かしいキャリアには捉えられるけど、そのキャリアが社会に出て必ずしも武器になるわけではなかった。自分はあまりにも外の世界のことと、何より社会における自分自身を知らないということを痛感しました」
選択肢はあれど、自分の持ち札がわからない-。
切羽詰まった状態で彼が最終的に福岡の広告代理店に就職を決めることができたのは、これからの時間の位置づけをしたことからだった。
「将来のことを考えると、まずは社会を生き抜いていく力をつけないといけないと考えました。その経験をした上で、自分に何ができるのか、何が得意で、何を生かしていけばいいのかを見つけて、プロサッカー選手の時のような明確な目標を社会で作り出せるようにしたかった」
この位置づけが、彼曰く今の仕事につながる重要な道の始まりとなった。中編以降では彼の人生を通して見えた『職業は大凶さえ引かなければ全部吉』の本質を描いていく。
中編はこちらからご覧ください
福元洋平(ふくもと ようへい)
大分県出身の元プロサッカー選手。ポジションはDF。
大分トリニータU-18在籍中の2005年に同クラブのトップチームへ選手登録され、高校生にしてプロデビュー。U-19日本代表ではキャプテンを務めた。2007年シーズンの終了後にガンバ大阪からオファーがあり、期限付きでの移籍を決断。2009年にはジェフユナイテッド市原・千葉に期限付き移籍した。2010年には千葉へ完全移籍するも、2011年をもって契約満了により退団。その後は徳島ヴォルティス、レノファ山口FC、ヴェルスパ大分を渡り歩き、2019年をもって現役引退を発表。正確なロングフィードと統率力でチームを支えた。
引退後は広告代理店に就職。現在は山口県の不動産会社で営業職に就いている。