彼の人生を3つに区切って考えるとしたら、①アスリート生活(高校→高卒プロ→大学→大卒プロ)、②セカンドキャリア、③サッカー界に戻ったデュアルキャリアの3フェーズとなる。そのフェーズごとに彼の変化、キャリア構築の過程を解き明かしていきたい。
まずはアスリート生活を紐解いていこう。1989年4月16日に大阪府で生まれた満生充は、早い段階でプロサッカー選手を目標にしていた。豊富な運動量とゴールへの嗅覚が鋭いストライカーとして頭角を現した彼は、京都サンガジュニアユースでプレーし、ユース昇格の話を断り、ちょうどサッカー部を創設する大阪桐蔭高校への進学を決めた。
実は大阪桐蔭高校の初代サッカー部監督に就任していたのは、満生の叔父にあたる永野悦次郎だった。この縁は後の人生の選択にも大きな影響を及ぼすことになる。現在も監督を務める永野は、満生を始め、阿部浩之(湘南ベルマーレ)、三浦弦太(ガンバ大阪)、白井康介(FC東京)、黒川圭介(ガンバ大阪)、西矢健人(サガン鳥栖)ら多くのJリーガーを育て上げてきた。当時、サッカー部を新設するということで、甥っ子である満生や実力者の阿部を1期生として誘ったのだった。
「チームを1から作るということと、永野監督の熱意もあって、ここで初の全国、初のJリーガーを目指そうと思って決めました」
上級生のいないチームを彼はキャプテンとしてまとめ上げた。そして高校3年時にはインターハイに初出場。さらに高円宮杯全日本ユースサッカー選手権(現・高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグ)に初出場を果たすなど、歴史を作り上げたエースストライカーとして、そして同校初のJリーガーとして2008年にJ2の水戸ホーリーホックに加入した。
だが、ここでプロの洗礼を思いっきり浴びることになった。当時の水戸には荒田智之(元ジュビロ磐田など)や吉原宏太(元北海道コンサドーレ札幌、G大阪など)、パク・チュホ(元韓国代表、ドルトムントやマインツでプレー)などの名手が在籍しており、FW争いのレベルが非常に高かった。
それでもルーキーイヤーで7試合に出場するなど順調なスタートを切った満生。しかし、勝負の2年目で彼は1試合も出場することが叶わなかった。
「1年目のシーズン終盤の3ヶ月間がかなり調子良かったので、自信を掴んだんです。この調子を絶対に落としたくなくて、オフの期間も一切休まずに毎日のようにトレーニングをして身体を追い込んで、キャンプに臨んだのですが…。J2開幕戦前日に中足骨の疲労骨折をしてしまったんです」
満生の性格は一言で表すと熱血漢。真面目で、与えられたミッションを全力でこなす愚直さを持っていた。真面目であるが故に自分の調子が以前の状態に戻り、また1から仕切り直すことに強烈な恐怖感を覚えた。そうした思いから、本来は身体を休ませるべきオフのすべてをトレーニングに充ててしまった。
結果、開幕前に身体が悲鳴をあげた。負傷した日、彼は明日に控えた開幕戦のレギュラー組でプレーをしていた。
ショッキングな出来事はこれだけでは止まらない。満生にとって中足骨の疲労骨折は2度目。1回目と同じ箇所だったため、前回の手術で既に入っていたボルトを抜き出して、新たなボルトを入れるという手術を行ったのだが、この新しいボルトがうまく入っていなかった。
2ヶ月程度で治ると言われていたが、3ヶ月、4ヶ月と過ぎても怪我の箇所から痛みが走り、復帰できるような状態に戻らない。そして痺れを切らした満生は負傷から5ヶ月が経過したところで専門医のところに駆け込んだ。
「新しい骨が一切生成できていなかったんです。医師に『これはボルトが骨すれすれのところに入ってしまって、一切血が回っていないから、骨くっついてないよ』と言われたときは頭の中が真っ白になりました」
改めて手術をすることが決まったが、術日は2ヶ月先。彼は負傷から7ヶ月間もほぼ治っていない状態で過ごさなければいけなくなってしまった。
「再手術をしても骨がくっつく保証はないし、元どおりサッカーができる保証もないと言われたときはもうここで辞めようと思っていたんです。でも、まだやれる可能性がある中で諦めることはしたくなかった」
葛藤し続けた彼は水戸を退団し、大阪産業大学に進むという決断を下した。実は彼にとって不幸中の幸いだったのが、大阪産業大学を休学していたことだった。高校生活を送った大阪桐蔭高校の運営は学校法人・大阪産業大学が行っており、いわゆる附属校的な位置付けだった。そのため多くの生徒は大阪産業大学に内部進学をするのだが、満生も水戸に入団するときに内部進学をしていたのだった。
「正直、僕はプロ一本で行きたかったんです。でも、大学側から『一度入学してから、休学という形で行ってほしい』と言われていました。僕はそんな保険をかけてプロに行くのは嫌だと言ったのですが、親からも『帰る場所があるのはいいことじゃないか』と言われましたし、周りからも説得されて『絶対に戻るつもりはないけど』と言いながらその提案を受け入れることにしました。結果的には戻らざるを得なかったのですが、でもこれが僕にかなり重大な出来事で、大学の4年間は今につながる貴重な時間となりました」
絶望感に苛まれながらも、「もし奇跡的に怪我が治って、サッカーができるようになったら、もう一度大学サッカーで頑張ってプロに戻ろう」という気持ちが彼にとって希望の光にもなった。
難しい手術は無事成功し、あとは骨が生成されるのを祈るように待つのみとなった。水戸から大阪に戻ってきた彼は、大学入学と共にサッカー部に入部。1年間をリハビリに充てた。
すると大学1年の途中に朗報が届いた。奇跡的に骨が生えてきたのだ。
「もう一度サッカーができるという希望が一気に広がりました。これまでは気持ちが切れないように必死にリハビリや筋トレをしてきたのですが、そこからは『絶対に這い上がる』と前向きに取り組むことができたんです」
このとき、彼はサッカー選手として、人として大事なことに気がつくことになる。水戸時代に始めたブログには、退団をしてからもファンやサポーターから温かいメッセージが届いていた。水戸ではほとんど貢献をしていない、プロですらなくなった自分のことを、ずっと気にかけてくれて応援をしてくれる。
「1回目のプロ生活ではファン、サポーターがいて応援されることは当たり前のように思っていました。しかし、それは大きな間違いであって、応援してくれる人がいることは本当に凄いことであり、かけがえのないことなんだと気づきました。僕を励ましてくれた言葉の数々は本当に支えになったし、進み続ける原動力になった。
家族も含めて、周りのみんなのためにも僕が2度目のJリーガーになることができれば、水戸の時よりも多くの人たちに元気を与えられるんじゃないかという気持ちがさらに強くなりました。生きる意味というか、努力をする意味を感じながら日々を過ごすことができたんです」
感謝の気持ちを抱きながら大学生活を送ったことで、周りの選手たちとのコミュニケーションにも大きな変化があった。大学2年生で完全復帰をし、ポジションもFWからサイドバックに移した。関西学生サッカーリーグ1部でリスタートを切った彼に対して周りは信頼を寄せつつも、どこか遠慮があったのも事実だ。
「休学していたことで、同級生が2つ歳下、1学年上の先輩が1つ歳下、2学年上の先輩が同い年という状況でした。しかも元Jリーガーというのもあって、気を遣われていることには気づいていました。だから僕は意見は言いながらも、全体のバランスを見て動くことを意識しました。僕の発言力が強くなってしまうと、監督やコーチの立場がやりづらくなる。だからといって黙っていてもいけない。
ここはストレートに、でもこの部分は間接的に伝えた方がいい。この場面では一歩引いた方がいいとか、常に周りの選手たちの意見や空気感を察知しながら、バランスをとって動くことが日常的になりました。
もし僕が感謝の気持ちを持たずに、自分がJリーグに戻ることだけを考えていたら、チームの中で浮いていたかもしれないし、コミュニケーションも円滑にいかなかったかもしれない。いま思うとプレー面以上に、人間として大きく成長できた大学生活でした」
4年生になると名実ともにチームの顔となり、リーグ終盤には気合いを見せるため自ら丸坊主にして試合に臨むなど、気持ちのこもった闘将としてチームを牽引した。そして、2014年シーズンからJ3昇格元年となる藤枝MYFCに加入することが決まった。
「僕のサッカー人生で一番濃かったのが大学2年生からの3年間。2度目のプロは自分のために、応援して支えてくれた人たちのためにも悔いのないように挑もうと思っていました」
だが、2度目のプロも甘い世界ではなかった――。
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満生充(まんしょう みつる)
大阪府出身の元プロサッカー選手。ポジションはFW、DF。
中学時代は京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)のJrユースに所属し、大阪桐蔭高校に進学。2007年に全国大会に出場し、同高出身者で初のJリーグ選手となった。2008年に水戸ホーリーホックに入団。トップチームで7試合に出場するが、2009年3月に左第5中足骨疲労骨折を起こし全治3か月と診断される。公式戦出場なしに終わったシーズンオフに水戸を退団し、大阪産業大学でプレーすることを決める。2014年に藤枝MYFCへ入団し、2016年シーズンを最後に現役を引退した。
引退後は不動産会社への勤務を経て、2021年よりデューミラン大阪の社会人チーム立ち上げに尽力した。現在は同チームの選手権監督としてプレーを続ける傍らで、Gogaku株式会社に不動産事業部の責任者として勤務している。