前編はこちらからご覧ください。
有言実行。大阪産業大での大学生活を終え、2度目のJリーガーとなった満生充。
だが、やはり現実は理想とは異なる。当時、藤枝MYFCは初めてのJ3とあって、水戸ホーリーホックと比べてプロフェッショナルの集団とは言い切れないところがあった。彼自身も選手としてプレーするだけでなく、サッカースクールを手伝いながらの生活をしていたし、周りを見渡せば掛け持ちでバイトをしている選手も少なくなかった。
「メンタル的にプロではないような選手もいましたし、周りに流されている選手もいた。もし僕が本当の意味のプロ1年目だったとしたら、この環境でどうなっていたかは分かりません。でも、僕は大学を通じて学んだことがベースにあったので、自分を持ち続けることはできたと思います」
常に感謝の気持ちを持ってプレーを続け、1年目はリーグ20試合に出場をし、念願のプロ初ゴールもマーク。2年目はキャリアハイとなる25試合に出場をし、3ゴールをマークした。
私生活でも2年目のシーズン終了後に結婚を決めた。「来年、上のカテゴリーに行く」とパートナーに伝え、また年齢的なことも考えて、翌2016年シーズンを勝負の1年と位置付けた。
だが、現実は残酷だった。2年目の途中で足首の靭帯断裂をして数ヶ月離脱をした影響が尾を引き、武器であるスピードやバネ、フィジカルの強さをプレーに反映させづらくなっていた。
勝負のシーズンはまたも序盤に負傷をし、夏に復帰するも、試合出場はリーグ最終戦の1試合、14分だけに止まった。
「次に何をするか考えないといけない状況になってきて、夏にJリーグのキャリアサポートセンターなどに行くようになりました」
多くのプロ選手が直面するように、今の自分に何ができて、何が得意なのかわかっていない状況でセカンドキャリアを考えたところで、サッカー以上のものなどなかなか見つからない。満生も例外ではなかった。
クリアソン新宿主催の人材交流の会合に顔を出して、そこでアスリートのセカンドキャリアなどをサポートする会社の人物と知り合い、「自己分析を徹底的にやって、自分がどんな人間なのか知った方がいい」というアドバイスにとても興味を持った。
「自分を知ることの重要性は大学生の時に物凄く痛感したし、サッカーではないことを次のキャリアで選ぶなら、(自己分析は)絶対にやっておかないといけない大事なことだと思ったんです。なので、まずは引退を決めるまでサッカーを全力でやって、そこから自分を知ることを徹底してやろうと考えるようになりました」
引退を決めたのは怪我から復帰した直後のこと。シーズン終了をもっての引退を決めたと同時に、引退後はひたすら自己分析に励む時間と決めたのだった。
「妻の存在が物凄く大きかった。妻はアパレル関係のプロデューサーをしていて、それなりに収入はありました。だからこそ、セカンドキャリアについても『今ここで焦って次を決めて、やっぱり合わなかった、とポンポン転職されても困る。ここで働きたいと心から思える会社が見つかるまで徹底的にやり尽くしてほしい』と言われたんです。
自己分析をしたかったけど、それよりも就職しないとやばいと内心では思っていたので、その言葉に本当に救われました。もちろん『家に何もお金を入れないことだけはやめてね』とも言われていたので、日雇いバイトを入れながら、自己分析する日々がスタートしました」
2016年11月30日をもってスパイクを脱ぎ、そこからは引越しや、商品の搬入などの時給の高いバイトを月曜日から金曜日までこなしながら、空き時間はひたすら自己分析に打ち込んだ。
彼の自己分析のスタートはまっさらなノートを買ってきて、そこに自分が好きなもの、嫌いなものを書き出すことだった。
「自分で考えてから、次に両親に『俺って小さいときどんな感じだった?』と聞いたり、小学校、中学校、高校、大学と一番仲が良かった人たちに電話をして『俺ってどんな人間だった?』と聞いて回ったりしました。自分からではなく他者からどう見られていたかを考えました」
毎朝4時に起きて、昼まで日雇いで働いて、昼以降の4時間は必ず自己分析を行う。そして1週間に1回は自己分析を提案してくれたサポート会社の担当者との面談を行って、自己理解とそれにリンクした仕事について話し合う日々が続いた。
満生の話を聞いていてさすがに「自己分析のネタも尽きてしまうのではないか?」と疑問を抱いたが、彼は「全く尽きなかった」と笑う。
「ある程度、周りからの自分を理解してから、ふと気になったことを深掘りしていくことをしました。例えば『永野悦次郎監督が好きだ』とノートに書いて、何が好きなのかをバーっと書いて、それって何で覚えているんだろう、なぜこの言葉を今でも覚えているんだろう、から始まって、それって何歳のどの記憶につながっているんだろうとやり出したらキリがないんですよ。
やればやるほど、全く関係がないと思っていたエピソードや記憶とリンクしていたり、物凄く大きな影響を与えていたりと、気づきがどんどん増えていったんです。もちろん、中途半端に終わったテーマもありましたが、そういうのを含めて、自分を知っていくことがかなり楽しかったんです」
3ヶ月が経過し、2017年2月に彼はセカンドキャリアに向けて本格的に動き出した。
「自己分析によって自分の中で『これだ!』と思ったのは、僕はサッカーが好きだったけど、本質はサッカーそのものが好きだったのではなくて、そこで勝利した喜び、負けた悔しさとか、そういう思いを仲間たちと共有できることが僕にとってのサッカーであり、一番幸せを感じていた瞬間だとわかったんです。
そうであれば、セカンドキャリアの職業はサッカー関係ではなくてもいいじゃないかと気づいた。じゃあ、どの職業にすればいいのか、何をすれば自分は達成感を得られるのだろうかと考えた時に、何をやるかではなく、誰とやるか、誰のために頑張るかを優先したいと思ったんです。
僕が京都サンガから新設校の大阪桐蔭に行った時も、『(叔父である)永野監督と一緒に強くしたい』と思ったからですし、大学の時も水戸で出会ったファンやサポーター、大学のチームメイトがいたから頑張れた。引退してからも自己分析に付き合ってくれた人がいたから没頭できた。じゃあ、これからも企業の顔である社長の人柄が素敵で、『この人のために頑張りたい』と思える場所で働きたいと思ったんです」
道が見えた満生は「社長の人柄が素敵な会社を紹介してください。業種は問いません」とサポート会社にリクエストを出した。さらに社員や人事部との面談ではなく、社長自らが面接をしてくれる会社を希望したところ、2社が応じてくれることになった。その一つが、彼が入社することになる不動産会社だった。
「面接の一発目に『やるなら大きな夢を持ってほしい』と言われたんです。その言葉は僕の心に深く刺さって、この人の下で働きたいと思って入社を決めました」
いよいよセカンドキャリアの始まり。全くの未知の世界へ飛び込むこととなったが、実際はかなりの準備周到の状態で臨めたことで、不動産業は彼にとって生活を支える基盤であり、自分を表現し、自己実現をしていく重要なツールと化していった。
後編はこちらからご覧ください。
満生充(まんしょう みつる)
大阪府出身の元プロサッカー選手。ポジションはFW、DF。
中学時代は京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)のJrユースに所属し、大阪桐蔭高校に進学。2007年に全国大会に出場し、同高出身者で初のJリーグ選手となった。2008年に水戸ホーリーホックに入団。トップチームで7試合に出場するが、2009年3月に左第5中足骨疲労骨折を起こし全治3か月と診断される。公式戦出場なしに終わったシーズンオフに水戸を退団し、大阪産業大学でプレーすることを決める。2014年に藤枝MYFCへ入団し、2016年シーズンを最後に現役を引退した。
引退後は不動産会社への勤務を経て、2021年よりデューミラン大阪の社会人チーム立ち上げに尽力した。現在は同チームの選手権監督としてプレーを続ける傍らで、Gogaku株式会社に不動産事業部の責任者として勤務している。