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掲載日:2025.5.30
最終更新日:2025.5.30
【前編】努力もリスクを負うこともできなかった高卒Jリーガー平秀斗が、牛に全力コミットする経営者になるまで
高卒でJリーガーになる選手の存在は、Jリーグにおいて特別な意味を持つ。近年は大学を経由する選手が増えているが、高卒でプロ入りする選手は、才能と努力を兼ね備えたエリートと言えるだろう。しかし、その一方で社会経験が乏しく、早熟なだけで終わるケースも少なくない。そのため、彼らのキャリアは極端に分かれやすい。一つは、遠藤航や堂安律、冨安健洋らのように、若くしてプロの舞台で活躍し、海外へと飛躍していく選手たち。もう一方は、試合出場の機会をほとんど得られず、レンタル移籍を繰り返しながらカテゴリーを下げ、早期に引退を余儀なくされる選手たちである。そして、後者の方が圧倒的に多いのが現実だ。今回は、そんな厳しい現実に直面した平秀斗の物語。彼は、高卒プロのリスクや思考を率直に語り、さらにセカンドキャリアへの甘い見通しと、それに気づいた後の巻き返しの人生まで、興味深い経験を共有してくれた。
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INTERVIEWEE
平秀斗(株式会社ひらふぁーむ代表取締役)
interviewer / writer:Takahito Ando
1年時から全国区。佐賀東高校待望の高卒プロの誕生

平秀斗は鹿児島県で祖父母が農家を営み、両親がサラリーマンという家系で生まれ育った。

 

中学時代からフィジカルとスピードがあり、個人技を磨くAFCパルティーダでストライカーとしての土台を築くと、パルティーダの先輩である赤崎秀平、中野嘉大(現・横浜FC)らの後を追って佐賀東高校に進学をした。

 

1年生からレギュラーを掴み取ると、U-17日本代表に選出されるなど注目の存在となった。卒業に至るまで不動のエースストライカーとしてインターハイ、選手権でも活躍し、当時J1のサガン鳥栖に鳴り物入りで加入をした。

 

「正直、鳥栖に入って高卒プロになれた時点で自分に満足してしまっていたんです」

 

もちろん、プロになれたから全てがOKという安直な思考だったわけではない。加入してからは競争に打ち勝って試合に出るために日々の練習からモチベーション高く挑まないといけないが、そこに『心の隙』が生まれてしまったことが、平のプロサッカー人生を大きく左右した。

高卒プロの落とし穴。甘えてしまった選手のリアルな実情

彼が加入した2013年は、前年に鳥栖がクラブ史上初のJ1昇格を果たし、クラブの勢いも右肩上がりだった。チームを指揮していた尹晶煥監督は選手にハードワークと強度の高いプレーを求め、チームメイトも豊田陽平、池田圭、水沼宏太などアタッカー陣には強烈な個性を持った選手ばかり。フィジカルもメンタルも未熟な平にとっては求められることも、競争相手のハードルもかなり高かった。

 

だが、そこで「何がなんでも食らいついていってやる」、「その中で自分はどうすればいいか、何をすべきか」と自分にベクトルを向けて取り組めば、光明は見えたかもしれない。しかし、当時の平の思考は違った。

 

「高校でワーっと騒がれて、いきなりJ1の選手。勘違いというか、高卒でプロになれたことで周りより早い段階でスタートラインに立てたわけなので、あとは『何年かすれば試合に出られるだろう』と考えていました」

 

1年目のJ1リーグの出場はゼロ。高卒1年目であることを考えると、自分にはまだ早い、未来があるからこそ焦ってはいけない。この考え方は決して悪いことではない。だが、そこには重要な前提条件があることを忘れてはいけない。

 

自分が今後、試合に出て活躍し、ステップアップしていくために必要な時間と捉え、練習中からミスを恐れずに積極的にプレーをしたり、失敗をしても映像を見直したり、コーチや周りの選手たちに聞いたりと、常に将来のなるべき姿、目標を明確に持って自己研鑽に努めていれば、若い時の出られない時間も土台となり、財産となる。

 

だが、それが自分の行動が伴っていない『逃げの思考』であれば話は大きく変わってくる。

 

「周りと自分を客観的に見て、1年目に出ることは無理だから、『別にここで無理をしなくていい』と思ってしまったんです。1年目はとにかく慣れて、『2年目、3年目で試合に出られればいっか』という感覚でした。いま思うと、時間が経過すれば慣れて試合に出れるだろうという安易な考えでしたね」

 

この逃げの思考がもたらしたのは、時間が経過するごとにどんどん開く成長速度と、サッカーに対する自信。まさに蟻地獄のような時間だった。

 

目の前が真っ暗になるゼロ円提示と最後のチャンス

「普段の練習もどんどん『やらされている感』が強くなってしまって、そういうメンタルでいたら当然ミスも増えるじゃないですか。ミスをする度に当然なのですが、周りから厳しく指摘をされる。それがどんどん嫌になっていって、とにかくミスをしないようにやろうと思ったり、自分から前に出ることがなくなっていった。当然、そうなると監督やスタッフがチャンスを与えてやろうとは思わなくなるし、周りの選手も信頼はしない。何より自分自身も楽しくない。プロになるまで試合に出られないことがなかったので、正直、自分が出られなくなるという考えは頭になかったし、何より努力の仕方がわからなかったんです」

 

出口の見えないトンネルに迷い込んだ結果、彼は3年半も鳥栖に在籍をしながら、リーグ戦出場はゼロ。カップ戦(当時はナビスコカップ)でトータル5試合に出場したのみで、FWでありながらノーゴールという成績に終わった。

 

2016年の夏にザスパクサツ群馬(当時J2)に期限付き移籍をし、リーグデビューは飾れたが、出場時間はわずかに10試合。ノーゴールの結果に終わり、双方のクラブから契約延長のオファーは来なかった。

 

プロ4年目にしてゼロ円提示。この時、初めて目の前が真っ暗になるほどの絶望感と焦燥感を味わったという。

 

「今なら『当然だろ、遅いよ』と思いますが、当時はまだその事にも気づいてなくて、0円の数字を見て人生最大のショックを受けてしまいました。もう人生が終わったというか、辞めたくなくても辞めざるを得ない状況に一気に追い込まれた。もう藁にもすがる思いでトライアウトに挑みました」

 

急に危機感に火がついても、そこでどうにかなるほど甘い世界ではない。トライアウトを受けるも、どこからもオファーは届かず。彼は鹿児島に帰ることになった。

 

冒頭で触れた通り、彼の実家は祖父母が米農家と畜産農家の両方をやっていた。そこまで大規模ではないが、平はアルバイトとして牛の餌やりなどの世話をすることになった。

 

「オファーは来なかったけど、そこで引退宣言をする勇気はなかったし、するつもりはなかった。でも、もう絶望的な状況であることに変わりはないので、『とりあえず』実家に帰ってお爺ちゃんお婆ちゃんの手伝いをすることにしました」

 

彼にとって牛の世話はただの場つなぎだった。引退したとしても、次に何をやるかなんて全く分からないし、考えるだけの材料がそもそもなかった。

 

サッカーだけしかやって来なかった現実に直面しました

 

苦しかったが、それも全て自分が招いた結果。先が見えない中、バイトとして2ヶ月過ごした平に突然、1本の電話がかかってきた。電話主はかつて鳥栖のスカウトで、当時は湘南ベルマーレのスカウトをしていた牛島真論(現・鹿島アントラーズスカウト)だった。

 

「牛島さんからベルマーレと提携しているJ3の福島ユナイテッドが興味を持ってくれていると言われました。ただ、獲得オファーではなく、あくまで練習生として。正直、『練習生ならいいや』と思ったのですが、牛島さんや両親、祖父母から『牛の世話はいつでもできるんだから、もう1回チャレンジしてみたら』と言われたので、吹っ切れた形ですぐに荷物をまとめて福島に向かいました」

 

ジャージなどは支給されず、交通費や滞在費は自腹。だが、平はラストチャンスにかけた。結果としてこれが彼の人生を大きく動かすきっかけとなった―。

 

中編はこちらからご覧ください。

平秀斗(ひら しゅうと)

鹿児島県出身の元プロサッカー選手。ポジションはFW、DF。

小学1年からサッカーを始め、高校1年時にはU-17日本代表にも選ばれた。3年時の全国総体では3試合で2ゴールを決めるなどの活躍を見せ、大会の優秀選手に選出された。

2013年シーズンからサガン鳥栖へ加入。その後は移籍によってザスパクサツ群馬、福島ユナイテッドFCでプレーし、2018年をもって現役を引退した。

引退後は実家の家業を継ぎ、鹿児島県内で畜産業を営んでいる。

CREDIT
interviewer / writer : Takahito Ando
director : Yuya Karube
editor : Takusih Yanagawa / Hinako Murata
assistant : Makoto Kadoya / Naoko Kamada
SPECIAL THANKS
父 正博
母 まり子
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