― 小野さんは2021年まで現役を続けられていましたが、その間の2017年に一度「引退」を決断されました。まずは一度目の引退について、経緯をお聞かせください。
一度目の引退を決めた要因の一つは、次のオリンピックに向けて自分へ問い続けていた「あと4年競技を続けることへの覚悟」に対する答えです。どんなアスリートでも選手生活を続ける上では覚悟を求められると思いますが、特に女性というのは、30歳くらいになると「女性としての」自分の在り方を考える人が多くなってくるのではないでしょうか。
結婚にしても出産にしても、なんとなくリミットが存在します。それを犠牲にする、という言い方が正しいかはわかりませんが、競技と女性としての生き方とを天秤にかけながらトレーニングを続ける必要があるのではと感じました。
ですから私も、2016年のオリンピックに出場してやり切った・燃え尽きたところで自問自答しました。結果を残すことができなかったという悔しい想いがありながら次に向かう気持ちよりも、「休みたい」という想いの方がはるかに大きかった。その時に、「ここで辞めても後悔は無い」と思ったんです。
もう一つには、当時所属していたチームでのことがあります。私は2007年から10年間、コカ・コーラウエストレッドスパークス(現コカ・コーラレッドスパークス)でプレーしていたのですが、最後の1、2年はチームにいてもどこか自分の居場所ではないような感覚を抱いていました。それで2016年が終わったらここを離れようと思っていて。
その二つの理由が重なり合い、引退を決断することになりました。
― それでも翌年の2018年には会社員をしながら再び競技の世界へ復帰されます。何かきっかけはあったのでしょうか。
2018年から3年間指導させていただいた、慶應義塾大学女子ホッケー部の学生たちの存在が大きいです。彼女たちの多くがホッケー初心者ですが、それはもう目を輝かせながら毎日私の声に耳を傾けてくれました。必死に頑張る彼女たちに触発されたのか、もう一度私も彼女たちのように輝きたいと思うようになったんです。
-そして迎えた二度目の選手生活、復帰してみていかがでしたか?
今は復帰してよかったと心から思っています。
その一番の理由は、最高の監督に出会うことができたからです。ちょうど私が選手として復帰したときに、東京オリンピックを見据えた日本代表の選考会がありました。当時の日本代表監督であったアンソニ―・ファリー氏はオーストラリア人で全く面識もありませんでした。
それを知って、「これまで自分のことを知らない監督が、私をどう評価するか」ということにすごく関心を持ちました。自分が人生で培ったものをどのように評価してくれるのかなって。
親子ほどに年の離れた選手もいる選考会でしたが、監督は「あなたを必要だと思ったから選んだのだ」と言ってくださいました。復帰しようと思ってから選考会までには2か月しか時間がなく、万全な状態ではありませんでしたが、初めて選考会を楽しむことができました。
その後に日本代表としての活動がスタートしますが、そこでは監督自らが選手とコミュニケーションを取りに行く場面がとても多く見られました。これまでの日本代表では、ミスに対して厳しく指導される経験が多かったのですが、ファリ―監督はそうではなくて。
「起きた結果に対して、まずは自分で考えるべきだ」と。選手のプレーが監督の考えるものと違う場合でも、それを咎めるのではなく、「どうしてこのプレーを選択したのか教えてください」とこちらの考えを聞いてくれます。これによって、自分の選択に対する根拠を伝えることができ、さらに監督の考え方や理想を教えてもらうことができました。
― ファリ―監督との出会いによって、小野さん自身の考えやモチベーションも変わっていったんですね。
はい。「彼の理想に近づきたい」という感覚を初めて抱いた監督でした。そして「なんとしてでも彼と一緒にオリンピックに出よう」「この人についていこう」と思えた監督も、彼が初めてでした。
最終的にはオリンピック直前に監督が変わってしまい、評価の基準も曖昧なまま代表選考から外れ、引退に至りました。心のどこかでもどかしい思いと応援してくださった方に申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、「自分の実力はここまでなのかな」と納得しようとしている自分もいて。
それでも、現役生活の最後に最高の監督に出会うことができて本当に良かったと感じています。彼は、日本でしか使わないラインで頻繁に連絡をくれます。日本とオーストラリアで離れているものの、今でも私の人生に寄り添ってくれるかけがえのない友人になっています。
-小野さんは一度目の引退を決められた後、海外に渡られたそうですね。
そうなんです。引退を決めて次に何をしようか考えたとき、すぐに就職をして働き始める必要はないのではないかと思いました。何よりも、「ホッケーを取っ払った自分」を見てみたくなったのです。
日本、そしてホッケーという狭い世界では、多くの方が自分のことを知っています。そんな環境では、「いま現在の自分」への評価ではなく「過去の自分が築いた価値」で物事が進むような気がしていて。
それが嫌だったということもあり、誰も自分のことを知らない海外に行きたいと考えるようになりました。
― すごいチャレンジですね。
いえ、チャレンジしているつもりは全くなくて、どちらかといえば自身の後悔に対するアクションでした。
実は最後に出場したリオオリンピックで、アンパイアに自分の言いたいことを英語で話せなかったという場面がありました。あの時、試合中で興奮していたとはいえ、ビデオ判定を確認しているアンパイアに「あなたが見ているより5秒前のシーンを見て欲しい」と英語で伝えられていれば、日本が予選を突破していたかもしれない。「この屈辱をどうすればいいんだ」という思いが強くあり、英語を勉強できる場所へ行こうと決めました。
これを思いついたのが2016年の11月で、12月にはビザを取得するためのレターを書き、翌2017年の2月にはオーストラリアに渡っていました。
― 渡豪から半年後に帰国され、今度は企業に就職されました。会社員としての一歩を踏み出したのですね。
2017年の10月に介護サービスを提供しているSOMPOケアから内定を頂いたのですが、その時はアスリートでも何でもない、普通の会社員として採用していただきました。ただ、同時期に慶応義塾大学でのコーチも始めていましたから、先ほど触れたように選手としての復帰に対する思いも次第に強くなってきて。
程なくして私の元にも代表選考会の用紙が届き、11月には競技への復帰を決めました。それでSOMPOケアの奥村オーナーへ、正直に日本代表の選考会へ行きたいということを伝えました。
― 会社の方々の反応はいかがでしたか?
奥村オーナーは、驚くこともなく「後悔のないほうを選びなさい」と言ってくださいました。逆に私が奥村オーナーの冷静な反応に驚きましたが、同時に「会社が寄り添ってくれている」と感じました。
アスリートを迎えること自体が当社としては初めてのことでしたから、勤怠一つとっても整理が必要だったはずですし、私の練習や遠征に伴い部員の業務も増やしてしまったと思います。しかし、皆さんは応援してくれ、そして支えてくださいました。
― 今まで選手としてやってきた方が会社員に転身されると、苦労する人も多いと聞きます。小野さんはいかがでしたか?
正直に、社会人としてのスキルが足りず、能力も低くミスばかりしてしまう自分が情けないと思う毎日です。ただ、こんな私を一人前にしようとチームのメンバーが全力でサポートしてくださっています。期待に応えたいという想いであふれています。
仕事においては、競技のやり方と仕事のやり方って、実は一緒なんだなと思いました。
チームがあって、リーダーがいて、メンバーがいて、達成すべき目標がある。目標に向かってスキルを身に着けることだとか、チームとして活動する上で物事を共有すること、メンバー同士がサポートし合うことも共通です。
仕事においても一人でできることは限られていて、競技と同じように協力しないと成り立たちません。この点は競技と一緒だなと感じながら仕事をしています。
後編はこちらからご覧ください。
小野真由美(おの・まゆみ)
1984年8月14日生まれ。富山県小矢部市出身。
10歳でホッケーを始め、小矢部市立大谷中学校では全国優勝。高校・大学と活躍を重ね、2007年にコカ・コーラウエストレッドスパークス(現コカ・コーラレッドスパークス)へ加入。2008年には北京オリンピック、2016年にはリオデジャネイロオリンピックにも出場する。アジア大会には5大会出場し、2018年のアジア大会では初優勝に貢献。現在はSOMPOケア(株)広報部にて勤務する傍ら、日本ホッケー協会 アスリート委員 委員長も務めている。