前編はこちらからご覧ください。
3月も中旬に差し掛かる頃、ようやく代理人から「アメリカのチームの練習に参加をする」という連絡が届いた。その前にスペインに行くように指示され、藁にもすがる思いだった村田は、スペイン3部リーグのCEサバデルというクラブのU-23チームに混ざって練習をし、そこからアメリカに向かった。
アメリカではメジャーリーグサッカーに所属するシカゴ・ファイアーFC、ポートランド・ティンバーズという2つのクラブの練習に参加をした。しかし、シカゴでは手応えのあるプレーを見せたものの、クラブは補強を行っておらず練習参加のみに止まった。唯一のトライアウトとなったポートランド・ティンバーズでは練習中に負傷し、契約を勝ち取ることができなかった。
失意の帰国となった村田を待っていたのは、セレッソとの話し合いだった。まだクラブとは契約が残っていたため、それを更新するか否かの最終判断をしなければならなかった。その期日が3月31日だったのだ。
帰国翌日に交渉の席に着くと、彼が下した決断は自主退団だった。
「この状態でセレッソでプレーすることは出来なかった。代理人も変えて、もう一度ゼロからチャレンジするしかないと思ったんです」
無所属になり、彼の言う通りゼロの状態になった。セレッソ大阪の村田ではなく、プロサッカー選手を目指している村田として、彼は再び土のグラウンドでボールを蹴り、琵琶湖の周りを走った。
だがこの時、彼の目に映る景色は徐々に輝きを取り戻していた。
「もう落ちるところまで落ちたから、ここから這い上がっていくしかない。もし、こんな俺にオファーを出してくれるようなクラブがあったら、そのクラブのために全身全霊を尽くしてめちゃくちゃやったろう」
いい意味で吹っ切れたことで、これまでにはなかった、心の底から沸々と湧き上がるものを感じた。さらに新たな代理人に人生を託したことで、村田の目の前には突如、未来へとまっすぐに伸びた道が現れた。
4月の1週目を過ぎた時、代理人からの電話が鳴った。
「清水エスパルスから話が来た。どうする?」
二つ返事で答え、直ぐに車に飛び乗って静岡へ向かった。そして当時のエスパルスの強化部長に会った時、まさに命の恩人だと思った。
「興味を持ってくださりありがとうございます。僕は一度落ちるところまで落ちた人間です。クラブのため、静岡県民のためだったらなんでもやります」
面会室を出た後に、自然と涙が溢れた。またこれでプロとしてサッカーが出来る。絶望の淵から前を向いて、視座を高めたことで巡ってきたチャンス。同時に周りの人が繋いで、支えてくれた人生。感謝の気持ちが彼の中である言葉を生み出した。
「やっぱり下向いていてもあかんのや。前を向いての人生は最高や、人生は常に自分自身が幸せやと思わないとあかんのや。最幸やないとあかんのや!」
2013年4月10日、村田の清水入りが発表された。この日から村田が見つめるものが大きく変わった。
「空白の4ヶ月を経て、一番感じたのは『プロサッカー選手の環境って当たり前じゃ無いな』ということでした。僕はどちらかというと雑草だったはずなのですが、セレッソというビッグクラブで、ファンがいて当たり前、チヤホヤされるものだと勘違いしていたんです」
セレッソの時もファンやサポーターは大事にする方だった。しかし、それは「播戸竜二さんが交流している姿を見て真似をしていただけ」で、上っ面のものだった。
「マーカーもない、相手もいない、味方もいない。僕だけの状態になった時に、自分の好きなことをやってお金をもらえて、応援されて、サインも求められて、プロって凄いなと。エスパルスによってもう一度その経験をさせてもらえるのであれば、関わってくれる全ての人のために全てを捧げようと」
村田の決意は口だけではなかった。まず彼が行なったのは静岡県内に5つあるスクールを回ることだった。ネットで場所を調べて、「エスパルスの村田和哉と申します。今度スクールのほうにお邪魔しても大丈夫でしょうか?」と電話をかけた。
当然、いきなり選手から電話がかかってくるため、最初はスクール側も「いたずら電話じゃないのか」と疑った。しかし、本当に村田が来てさらに驚いていたという。
エスパルスの5つのスクールは、駿東、富士、清水、静岡、藤枝にあるが、村田はすべてのスクールに顔を出して子供たちとボールを蹴るだけではなく、エスパルスドリームフィールドに併設しているオフィシャルショップで自らのクッズやクラブのグッズを大量に買い込んで子供たちにプレゼントをした。
当然のように村田の周りは笑顔に包まれた。どの場所に行っても、子供たちは笑顔で村田を迎え入れてくれた。
「もっと周りを笑顔にしたい」
こう思った村田はグッズを常に車の中に積み込み、地元の飲食店に顔を出して自らのサイン色紙やサイン入りグッズを渡し、時にはコンビニの店員に「エスパルスの村田さんですよね?」と聞かれたら、直ぐに車からグッズや色紙を取り出して渡した。
「こんなことをする選手は初めてだ」
村田の行動はすぐにサポーターや地域で話題になった。さらに自然とSNS上でも「スクールに村田選手がいきなり来た!」や「一緒に写真撮って、サインもらった!」などと書き込まれていき、その反響は日に日に大きくなっていった。
移籍してやってきた地元出身ではない1人の選手が巻き起こしたムーブメントは、すぐに目に見える形で現れた。加入2年目の2014年には個人グッズの売り上げがチームナンバーワンになり、いわゆる『ファンを呼び込める選手』になっていった。
「最初は僕が自分でグッズを買っているからなのかなと思っていたのですが、だんだんグッズショップに僕のグッズの入荷量が増えて、2年目のある日、買いに行こうと思ったら、ほとんどなかった時があったんです。
それで店員さんに聞いたら『村田さんグッズめちゃくちゃ売れています』と言われて、本当に嬉しかったですね。おそらく店員さんも僕が普通に来ていることを知っていたから、多く発注してくれていたのかもしれません」
この時、村田はエスパルスでレギュラーを掴んでいたわけではなかった。2014年はJ1リーグ29試合に出場をするが、スタメン出場は1試合もなかった。
「日本代表選出経験のあるようなスター選手ではなく、背番号22の、それも終盤の10分くらいしか出ない男が、なぜグッズ売り上げナンバーワンになるのか。『これ、周りはサッカー選手を応援しているのはもちろんだけど、村田和哉という男を応援してくれているんだ』ということに気づきました。そこで『もっと他の選手がやっていないことをやったろう』と火がついたんです」
この時に彼は『人生最幸』という言葉を自身の座右の銘にした。
「とある知人に『自分の生きる目的を決めて、キャッチフレーズを作ってみたら』と言われて考えた結果、夢に向かって突き進むことで、その瞬間に人生が最も幸せになる。常に夢を持って人生を送って、その結果で関わる人たちが同じ気持ちを持ってくれるようにしたいと思って、『人生最幸』という言葉を口にするようになりました」
人生をより幸せに、彩りをつけていくべく村田はさらに地域へ飛び込んでいった。ピッチ上では試合後に観客にハイタッチをしに行ったり、ボランティアが朝の7時から駅前で試合のビラ配りをすると聞いたら、すぐに行って一緒に配ったりした。それがさらにSNSで拡散され、話題を呼んだ。
あるとき清水駅前のアーケード商店街にエスパルスの旗やグッズが置かれていないことに違和感を覚えた村田は、「お膝元の商店街なのにこれはおかしい」と自ら乗り込んで一つひとつの店へサイン色紙やグッズを持っていって手渡した。
当然、商店街の人々は驚いていたが、すぐに彼が上辺だけの行動をしているわけではないと分かった。
当時、エスパルスの選手の多くは静岡駅近辺の駿河区に住んでおり、清水駅周辺に住んでいる選手はいなかった。そこで村田は妻と相談した結果、商店街のど真ん中にあるマンションに引っ越すことを決めたのだった。
「皆さん、俺、商店街に住みます」
こう宣言して、本当にやってきた村田を商店街の人たちが応援しないわけがなかった。商店街にエスパルスの旗だけではなく、村田の個人幕も飾られるようになった。さらに村田家の七夕飾りや、息子の提灯飾りなども飾られるようになった。
「静岡の人でもないのに、なんでそんなに清水、静岡のためにやってくれるんだ」と村田の行動に心を打たれ、これまで河井陽介や村松大輔など静岡出身の選手にはあったが、県外選手にはなかった個人後援会組織まで誕生した。
「後援会もただ集まって飲み会をするのではなく、清水や静岡の発展、エスパルスの発展に寄与できる組織にしたいと伝えたら、後援会の皆さんが心から賛同してくれた。僕の人生の座右の銘である『人生最幸』を使った『人生最幸シート』をホームスタジアムに設置したり、子供たちとより交流を深めたり、これまで一人でやっていたことをみんなでやれるようになりました」
2015年にJ2降格の憂き目を味わい、2016年に1年でのJ1昇格に貢献し、2017、2018年とJ1でクラブのためにピッチ内外で走り続けた村田にとって、ついに辛い別れの時がやってきた――。
エスパルス在籍6年目を迎えた2018年、J1リーグ7試合の出場に留まった。30歳を迎えた村田は、プロサッカー選手のキャリア晩年に差し掛かっている自分に対し、具体的に将来のビジョンを映し出していた。
「2015年にJ2降格を味わった時に、そこでプロサッカー選手としての現実を目の当たりにして、『日本代表を目指すのが難しくなった』と思ったんです。そうなると次のステージのことを考えないといけないなと」
彼の人生プランは前述したように32歳までプロサッカー選手を続け、その後は滋賀県に帰って何かをするということだった。ちょうど27歳で残り5年と考えると、具体的な方針を決めないといけないと考えた。
そこで頭に浮かんだのが、滋賀県でJリーグクラブを作ること。近隣の京都、岐阜にはあるのに、滋賀にはない。奈良県もJリーグクラブはなかったが、すでに奈良クラブが具体的なアプローチをしていた。その流れを見て、滋賀県に今必要なものはプロサッカークラブだという考えに行き着いた。
「エスパルスがある街に自分から飛び込んで行った結果、僕のサッカー観が大きく変わりました。サッカー選手なのですが、自分がやっていることは『街おこし』そのものだと気づいたんです。エスパルスを媒体にして、清水、静岡の街に活力を与える。老若男女、行政も企業も全て、エスパルスを通じてつながっている。『こんな素晴らしいものを滋賀県に作るしかない』と思ったんです」
ヴィジョンは見えた。では、まず何をすべきか。
「ふと、『いったい滋賀県で俺のことを知っている人は何人いるんだろう』と思ったんです。みんな乾は知っているけど、僕のことは知らない。滋賀県での自分の認知度を上げていかないと土台すら作ることができないと危機感を抱いたんです」
そう思った村田はすぐに行動に移した。静岡で子供たちや地元の人たちとの交流を深める一方で、生まれ故郷である滋賀県守山市の市長を訪問し、想いを伝えた。
「清水エスパルスの村田和哉と申します。ぜひ生まれ故郷である守山市のふるさと大使の役職を僕にさせてください」
野洲高校出身で、現役バリバリのJリーガーからの突然の申し出にさすがの市長も驚いたというが、実際に市長のもとに直接挨拶にもやってきた村田の熱意に押される形で、2016年6月に滋賀県守山市ふるさと大使に正式に任命された。
さらに毎年のオフには家族で海外旅行に行っていたが、「妻と話をして、それよりもオフは滋賀に帰って、滋賀県のために活動をしようと決めました」と、12月、1月の始動までは滋賀県で精力的にサッカー教室を開いたり、地元の人たちとの交流を深めたりして、滋賀での土台を築いて行った。
オフのサッカー教室は当初の守山市のみから、長浜市、彦根市、近江八幡市と各地まで広がりを見せ、時間が空けば滋賀県内の小学校や中学校の校長先生に電話をし、「講演や授業をさせてもらえないでしょうか」と懇願し、臨時講師として子供たちの前で自分のこれまでの経験や将来のビジョンなどを直接言葉にして伝えた。
「妻も『こういう活動は現役時代にやった方が絶対にいい』と背中を押してくれたことが大きかった。妻が車を出してくれて、一緒にいろんなところに回りました」
妻のサポートもあり、村田の滋賀県における知名度はどんどん増して行った。同時に村田の中に強烈な使命感が生まれていった。
「活動をすればするほど、『滋賀県には絶対にプロサッカークラブが必要だ』と強く思うようになったんです。始めたばかりの頃はアンケートをとっても将来の夢をしっかりと描けない子が多かった。それを変えるためには、大人がもっと『夢を持つことの大切さ』を子供たちに示していかないといけない。大人である僕がどでかい夢を掲げて、それに全力を尽くす姿を見せたり、伝えていかないといけないと思ったんです」
自分がやるべきことが確信に変わった。滋賀への想いが強くなっていた2018年、村田はついにエスパルスを離れる決断を下した。
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村田和哉(むらた かずや)
滋賀県守山市出身のサッカー選手。ポジションはMF、FW。
野洲高校から大阪体育大学へ進学、大学2年時には第32回総理大臣杯で全国制覇を果たした。
2011年にセレッソ大阪でプロデビューを飾り、その後は清水エスパルス、柏レイソル、アビスパ福岡、レノファ山口FCでプレー。サイドを切り裂く快足を武器に、交代の切り札として活躍した。2021年に現役引退を発表。
引退後は「滋賀県にJリーグを」という夢を実現させるため、ヴィアベンテン滋賀と株式会社人生最幸を立ち上げる。