『郷土愛』。
人はそれぞれに生まれた場所、幼少期に育った場所、多感な時期を過ごした場所がある。すべてが同じ場所の人もいれば、異なる場所の人もいる。
当然その中には自分のアイデンティティとなる場所となり、そこに愛着や感謝を抱く人もいれば、逆に「ここから飛び出したい」と強い反骨心を持って別の場所へと羽ばたく人もいる。まさに捉え方、抱き方も人それぞれだ。
今回インタビューをさせていただいた元プロバスケットボール選手の大石慎之介氏。現在は引退まで所属していたベルテックス静岡のアシスタントコーチを務めている。彼にインタビューをすると、強い郷土愛こそが彼の活動のエネルギーであり、思考のベースとなっていると感じた。

ちなみに筆者は冒頭の郷土への想いで言えば、「早く地元から出たい」であった。岐阜県高山市で幼少期から育ったが、地元を出て愛知県名古屋市へ向かった。
大学で愛知に住み、その後銀行に就職して岐阜で5年半を過ごしたが、ここでも「サッカージャーナリストになって東京に出たい」と27歳の時に再び岐阜を出ることになる。
12年間の東京生活から千葉に拠点を持った私は、どちらかというと千葉愛が強い人間だ。要するに私と大石氏は全く正反対のタイプだということ。
だからこそ、インタビューを通じて彼の口から出る言葉はどれも新鮮で、正直に言うと少し理解できない部分もあった。
ただ、全てのインタビューを通じて思ったのは、「ここまで地元を愛せることは幸せなんだ」ということだった。
どこまでもまっすぐで、どこまでも深い愛。その愛が彼の努力、そして様々なアクション、発想の揺るぎない原動力になっているからこそ、いつまでもブレないのだろう。
羨ましさとリスペクトを抱きながら、大石氏のストーリーを描いていきたい。
前編ではまず彼が強い郷土愛に気づくまでを描いていきたい。1987年12月15日に沼津市で生を受けた大石は、バスケットにのめり込みながら、小学校、中学校と過ごし、高校はバスケットの強豪・飛龍高校に進学した。171cmとバスケットボール選手としてはかなり小柄だ。だが、天性のバネとアジリティー、コート全体をクリアに見渡せる目と状況判断能力に秀でていた彼は、1年生の時からスタメンを張り、3年連続でインターハイ、ウィンターカップも2年連続(3年間で出場できるのは2回まで)で出場し、静岡トップクラスのプレーヤーとなった。
ここでまず大学進学という1つの転機を迎える。大学バスケットボールのメインは関東で、次に関西が続くという状況だった。当然、彼のもとには関東の強豪大学からも多くのオファーが来ていた。だが、彼は東海地区で一番強い、地元の浜松大(現・常葉大)への進学を決めた。
「正直、大学は楽しみながらバスケをやろうと思っていたんです。本気でやるのは高校までで、ここからは大学リーグで楽しんでやって、教員免許を取得して教員になろうと。関東のオファーは少しだけ考えましたが、地元で教員免許が取れて、バスケも東海地区では強い浜松大にしました」
何気ない決断だった。だが、この決断がまさか自分の今後の人生に物凄く大きな影響を与えるなど、この時は微塵も思っていなかった。
バスケを楽しもうと進んだ浜松大だったが、1年生からレギュラーを掴み、東海リーグ優勝と新人王を獲得すると、一気に彼の中で再びバスケ熱が再燃するようになった。
「1年生から使ってもらって、『やっぱりバスケは楽しいな』と心から思ったんです。ちょうどその時に監督とのたわいもない会話から、『地元にプロクラブができるらしいから、将来的に目指したらどうだ?』と言われたんです。最初は冗談かなと思ったのですが、それが後に僕が所属することになった浜松・東三河フェニックス(現・三遠ネオフェニックス)でした。そこで『プロを目指してみよう』とよりバスケにのめり込むようになりました」
本気になった大石の躍進は止まらない。4年時には東海リーグ4連覇の離れ業と、個人としてもアシスト王、スティール王、DF王、そしてMVPを獲得。まさに東海地区ナンバーワンのポイントガードとなった。
そして、大学4年時の1月にプロバスケットボールリーグであるbjリーグの仙台89ERSとアーリーチャレンジ契約(卒業を待たずに加入することができる制度。サッカーで言うと特別指定選手制度)を結ぶと、2009~2010シーズン終了後のbjリーグの育成ドラフトで宮崎シャイニングサンズに指名されて選手契約を勝ち取った。
仙台時代を含めた2年半、初めて静岡以外の場所で生活をすることになった。この期間で大石は自分の心の奥にある静岡愛に気づき、具体的なアクションを起こすようになる。きっかけは幼少期の記憶だった。「僕が小学校のときは静岡で年に1回しかプロの試合を見ることができなかった。当時はbjリーグもなくて実業団だったのですが、アイシン精機男子バスケットボール部(現・シーホース三河、B1リーグ)の年に1回ある県内での試合を観にいくことが本当に楽しみで楽しみで仕方なかったんです。試合後もワクワク、ドキドキしながら選手にサインをもらうためにバスの近くで出待ちをしていました。仙台、宮崎でプレーしていくにつれて、静岡の子ども達の前でバスケがしたいという気持ちが沸々と湧き上がってきたんです」
その中で浜松・東三河フェニックスでプレーしたい気持ちが強くなっていった。
「もうずっと公言していました(笑)。その結果、オファーをいただけたんです」

2012〜2013シーズンに浜松・東三河フェニックスに移籍をすると、ずっと自分の願いが叶ったと思った。だが、その時間も長くは続かなかった。
当時、チームは愛知県豊橋市と浜松市のダブルホームタウンのチームだった。公式戦も2つのアリーナ(豊橋市総合体育館と浜松アリーナ)を併用して行うため、静岡県の子供たちや大人も『地元のクラブ』として試合や選手と接することができた。
だが、当時のバスケットボール界はbjリーグと日本バスケットボールリーグ(JBL、2013年からはNBL)の2つのリーグに別れる混沌とした時代だった。この異様とも言える現状に終止符を打ったのが、2015年のBリーグの発足だった。
チームはBリーグに加入する際に、ホームタウンは県を跨がないという規定に則って、ホームタウンを豊橋市にして、ホームアリーナも豊橋市総合体育館に定められた。
活動地域は豊橋市が中心の東三河地域と浜松市が中心の遠州地域にし、名称も三遠ネオフェニックスに変更。活動地域は静岡も含まれるが、実質は愛知県のチームとなった。「浜松で試合をする機会が激減(シーズン全体の2割程度)して、そこで『寂しいな』という気持ちがどんどんこみ上げてきたんです」
浜松市と豊橋市はJR在来線で35分、新幹線だと僅か11分の距離で、静岡の子どもたちや人たちも試合を観に来ることはできる。だが、大石の中では距離云々ではなく、シンプルに静岡県で試合が少ないという事実が、心にポッカリとした穴を空ける大きな出来事となった。
「三遠になったことで、実質静岡県のクラブが1つもなくなってしまった。その『実質0』という数字が僕の心に重くのしかかってきたんです」
ただ、選手としてのキャリアを考えると、bjリーグからスタートし、ついに日本の最高峰リーグであるB1リーグでプレー出来る場所まで駆け上がることができた。B1リーグの1年目で大石はプロでのキャリアハイとなる60試合に出場し、まさに旬の時期を迎えていた。
だが、心に空いた大きな穴は埋めきれず、彼は誰もが予想できなかった行動で、郷土愛と不退転の覚悟を示すことになった―。
中編はこちらからご覧ください。

大石慎之介(おおいし しんのすけ)
静岡県沼津市出身の元プロバスケットボール選手。ポジションはポイントガード。
浜松大学(現・常葉大学)を卒業後、2009年に仙台89ERSへ入団。以降は、宮崎シャイニングサンズ、浜松・東三河フェニックス、三遠ネオフェニックスでプレーしたのち、2018年に地元静岡のベルテックス静岡(当時:静岡エスアカデミアバスケットボールクラブ)へ加入。 2023年に現役引退を発表し、13年のプロキャリアに幕を閉じる。
引退後の2023年からベルテックス静岡のアシスタントコーチに就任し、クラブ創設時から支え続けたチームの指導者として、静岡バスケットボール界の発展に尽力している。チームのB2昇格に大きく貢献し、現在も地元静岡への熱い想いを持ち続けている。





