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掲載日:2023.9.13
最終更新日:2023.9.14
非合理的に見える選択も、長い目で見れば合理的。”あの日”魅せられた光景に導かれた元バスケ選手経営者の挑戦と選択。
日本男子プロバスケットボールリーグB.LEAGUEの仙台89ERSで選手として活躍後、ゼネラルマネージャーを経て2020年5月に社長へ就任した志村雄彦さん。大学から東芝の実業団、そしてプロ選手から経営者へ。バスケットボールの世界でプレーヤーとして、また経営者も経験する志村さんのキャリア変遷を聞くと、想いのこもった、しかし一般的には合理的とは言えないキャリアの話を聞くことができました。
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INTERVIEWEE
志村雄彦(株式会社仙台89ers代表取締役社長)
interviewer / writer : Rumi Tanaka
「熱狂のアリーナ」を夢見て。バスケ超有望株が選んだ意外な進路

仙台高校の3年間で3度の日本一。進学した慶應義塾大学でも4年次に関東大学リーグ、インカレ優勝を経験。卒業後に入社した東芝(現:川崎ブレイブサンダース)でも1年目より出場機会を得るなど、選手としての実績と評価はかなり高かった。

 

2008年に入団した仙台89ERSでは、2018年5月の引退まで中心選手として活躍。ゼネラルマネージャーを経て、2020年に球団代表に就任。現在は、スポンサーや地方自治体、ファンなど幅広いステークホルダーに価値を提供し、支えられるスポーツチーム経営に奔走している。

 

そんな志村だが、後に振り返ると原体験と呼べるような忘れられない光景があるという。

 

「小学校5年生のときに、父がNBAの試合に連れて行ってくれました。ロサンゼルス・レイカーズの生の試合をみて、頭を思いっきり殴られたような衝撃を受けたんです。

 

アリーナに1万人を超える観客が集まり、小さい子どもからおじいちゃん、おばあちゃん、外国人までが一緒に一つのチームを応援しているのを五感全てで感じとりました。年齢、性別、人種を超えて熱狂しているアリーナの空気はいつもバスケをしていた仙台の体育館とはまったく違うものでした。

 

そのときにおぼろげながら感じた『いつか仙台でも、そして日本中でもこんな景色が見られたらいいな』という感覚は自分の原点になっているかもしれません」

 

彼のそれからの進学・キャリアを聞けばこの光景を理想として心に留めていた話にも深く頷くことができる。

 

中学、高校で実力があり、地元の仙台高校でウィンターカップ連覇、国体優勝を経験した志村。言わば、大学はスポーツ推薦でどこからもオファーが来る状況だった。バスケットボールで生きていくために合理的に考えるのであれば、オファーを吟味し進路を決めることになるだろう。

 

しかし、彼が選んだのは慶應義塾大学のSFC(慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス)。しかも推薦入試ではなくAO入試で進学する。周りから見れば「なぜ、もったいない」と思う選択にも志村なりの明確な考えがあった。

 

「大学ではバスケ以外の世界も体験したいと思っていました。高校までは、バスケを中心に世界を見ていて、生きている世界は決して広くはなかった。日本一という目標も高校で達成できたこともあって他の領域で活躍する同世代に出会いたい、刺激を受けたいと思ったんです。

 

僕は約160cmと選手としては背が高くないので、大学では選手としては通用しないかもしれないという思いも少しはありました。周りと違うことをしたら、人としてもっと高く飛べるかな…なんてことを考えていました。スラムダンクの谷沢みたいですけど(笑)」

 

高校時代にすでに人と違うことをして自分のプロダクトとしての価値を高めることを知っていたように見える。だからこそ人と違う選択が取れる。

仙台高校時代にはウィンターカップ連覇、そして国体優勝を経験した

 

進学したSFCには、多彩な学生が在籍していたこともあり、当時について「バスケ以外では劣等感しかなかった」と振り返る志村。知識や関心の幅が広い友人らについて、「話している内容のレベルが高すぎて、何を言っているんだろうと思っていた」と笑う。ただ、尖った学生が多い環境に身を置いたことで、自分の価値を改めて認識することになる。

 

「出会った友人たちはみんな、ジェネラルでパーフェクトというよりも、足りないところがありながらもそれを補って余りある圧倒的な強みを持っている人たちばかり。強みを生かすためにどう生きていこうかと考えるマインドに影響を受けました。

 

では、自分が胸を張って社会に出れるものはなんだろうか、志村雄彦の看板となるものを考えるとやっぱりバスケだったんです。バスケへの思いや競技力なら戦える。だから、バスケットを中心に人生を考えていった方がいいだろう、と」

 

バスケ以外の世界に進み、いろんな個性や強み、生き方の選択肢を見たからこそバスケの道へ突き進んでいくことができる。もうその時に悩みはなくなり、自分への説得力が生まれた。一見非合理な道に思えたSFCへの進学は、彼にとって非常に合理的なものとなった。

 

そして、大学4年次には関東大学リーグ、インカレで優勝。志村はMVPを受賞する。バスケを優先しない進路であっても一番をとってしまうバイタリティには感服するばかりだ。

選手でも経営者でも、市場価値を高めてアップサイドを取りに行く

卒業後の2005年に志村は社員として東芝(現:川崎ブレイブサンダース)に入団する。当時は待遇面でも、レベルでも実業団の方が高いと言われていた。当時10チームほどしかなかったトップチームの狭き門に、新卒で入社した”エリート”とも言える存在。しかし、東芝は社会人バスケットボールのJBLスーパーリーグで前年に優勝を果たした超強豪チーム。そこで志村は「すでに完成されていたチームに入る難しさ」を痛感した。

 

「ここに自分が入っていくのは至難の業だと、早々に壁にぶつかりました。3シーズンを過ごした後にもっとプレイヤーとして成長するために出場機会を増やしたいと思い、bjリーグのトライアウトを受けました」

 

当時で言えば、プロの道に進むということは東芝という大きな組織の安定した社員という立場から離れ、先の見えない道にいくということだ。

プレイヤーとして成長するために、険しい道へ踏み出した

 

エリートとして入団して安定もしている「人から羨ましがられる」立場から、暗中模索の中切り拓いていく世界へ。この選択も多くの人ができることではないだろう。しかし、そこには怖さよりも、環境を変えることへ能力を発揮していくことへの期待感の方が大きかったという。

 

「決断の背中を押してくれたのは、大学の友人の言葉でした。『やりたいことがあって、環境を変えて力を発揮できる可能性があるなら辞めることはネガティブじゃない』と。当時はまだ26歳で、大金をすぐに稼ぐ必要もなかったし、決意を決めました」

 

ただ、実際にプロの世界に入ると、「動物園からジャングルに戻ったライオン」のような感覚に襲われた。自分で狩るしかない世界。給料が定期的に入る保証がない不安定な立場になったことは、「自分の価値を高める」ことに真剣に取り組むきっかけになった。

 

「経営をやっていく上でも自分たちのプロダクトの価値はなんなのかということを考えてよりアップサイドを狙っていく必要があると思いますが、選手の時も同じように取り組んでいました。自分というプロダクトの価値を高めるためにはどうすればいいか。それはもちろん毎日のパフォーマンスを良くして、自分の価値を高めること。ただそれだけでなく、個人としてのブランディングであったり集客力などもそうです。

 

確かに選手時代と球団経営をしている今とでは、向き合う相手やステークホルダーは変わりました。しかし、変わったのはそれだけで、どうやって価値提供のアップサイドを取りに行くかという視点では同じかもしれませんね。大きな組織を離れてプロになったんですが、離れなかったら見えない景色だったのかなと思っています」

原体験から生まれた揺るぎない軸が、自分の選んだ道を正解にする

その後、2018年に選手としての引退を決め、ゼネラルマネージャー、代表へと立場を変えてきた。自身の現在地を「スポーツ選手のセカンドキャリア」のようには考えておらず、あくまでも目的のための環境変化の一つと捉えているという。

 

「30歳を超えてからは、いつ選手を辞めてもいいと思っていました。”引退”というと、ものすごく大きなキャリアの区切りのように思われますが、アスリートじゃなくても転職はするし、職種を変える人だっている。みんな同じように分岐点を経て選択して進んでいるのだからよくある環境の変化の中の一つと捉えています。

 

僕は人生において、影響を与え続けられる人になっていたいと思っていて、選手時代はそれがプレーすることでした。今は、クラブを経営してこの街の人が豊かになっていくこと。楽しく笑って過ごせる、そんな世界観をクラブを通して作っていきたい。その手段として場所を作ったり、試合に勝ったりがある。ここがブレなければ役割はなんでも良いと思うので、引退という大きな区切りで分ける必要もないんじゃないかと思います」

 

今の志村には前述した小学校5年生の時のNBAの試合で刺激を受けたものがはっきりと見える。そして、スポーツビジネスの難しさに頭を悩ませながらも、B.LEAGUE全体の新たな挑戦へ寄せる期待は大きい。

「引退はあくまでもキャリアの通過点である」と志村は話す

 

「あの時の光景を思い出して、これが自分があの時刺激されたものなんだなとフツフツと燃える気持ちになります。それは競技レベルだけでなく運営も含めたエンターテイメント、スポーツビジネスとしてのおもしろさ。

 

スポーツビジネスってめちゃくちゃ難しいんですよ、勝ち負けがあって。『勝った負けた以上のものをどうやって価値として提供できるか』がすごく重要で。『絶対勝ちます』を謳い文句にして集客できないところは、本当に難しいところなんです。

 

良い時も悪い時もあって、その人生のようなおもしろさでどうやって盛り上げられるか。現代では他にもたくさんのエンタメがある中で、いかにお客様の心をクラブに惹きつけられるかは、経営者としての挑戦です。

 

バスケは収容人数が限られる箱型のビジネスなので、頭打ちは必ずきます。これからはB.LEAGUE全体でアリーナ開催に向けた取り組みに注力していきます。日本のバスケが次のフェーズに入ろうとしているのかなと、今はとてもワクワクしています」

 

これからの挑戦はまさに小学5年生の時に見た、あのアリーナの景色への挑戦だ。ここまでの挑戦を「運とタイミングが合って実現できた」と表現する志村は、自身の経営スタイル、そして選択のマインドをこう語る。

かつて見た夢のような光景を仙台でも実現するために志村は挑戦する

 

「僕が経営をやらせていただいてすごく意識するのは、次のフェーズ、景色をみなさんにお見せすること。それは関わってくださってる人たちや一緒に戦っているチーム、職員、ファンたちに対してです。

 

選手やスタッフが成長できる環境を作り、ファンや仙台の街の人たちみんなが、笑って過ごせる空間を作っていきたい。そのための手段として、優勝や勝利があります。次のフェーズに進むことで、チームにかかわる全員に新しい景色を見せていくことが、僕の役割かなと思っています。

 

高校の先輩に誘われてチーム経営の世界に引っ張ってもらえたのですが、本当に運とタイミングが重なったと思っています。漠然とバスケをスポーツビジネスとして考えたいなと、やりたいと思っていたことがぴたっとハマった。後悔する選択はしたくなかったし、自分が決めたことは最終的に自分で正解にできるものだと思っています」

志村雄彦(しむら たけひこ)

1983年2月14日生まれ。宮城県泉市出身の元プロバスケットボール選手。ポジションはPG。
2005年、東芝(現:川崎ブレイブサンダース)に加入。2008年にはbjリーグドラフト会議にて、地元の仙台89ERSから1巡目全体7位指名を受け入団。2011年3月に発生した東日本大震災によるチームの活動休止を受け、琉球ゴールデンキングスへのレンタル移籍を経験。活動を再開した仙台に復帰して以降は、仙台でプレーを続けた。2018年をもって現役を引退。
引退後は仙台89NERSのゼネラルマネージャーに、そして2020年には同チームの社長に就任。経営者として奮闘する日々を送っている。

CREDIT
interviewer / writer : Rumi Tanaka
editor : Takushi Yanagawa
director : Yuya Karube
assistant : Naoko Yamase
assistant : Yuta Tonegawa
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