埼玉県熊谷市で生まれ育った彼は、小学校時代からエリート街道を歩んできた。埼玉の強豪である江南南サッカー少年団で中心選手としてプレー、この時2学年下に原口元気がいた。
中学時代は全国的にメキメキと力をつけてきたクマガヤサッカースポーツクラブで力を磨き、Jクラブユースからの誘いもあったが、前橋育英に進学。2年時からこれまで山口素弘、松田直樹、青木剛など絶対的エースが背負ってきた14番を託され、将来を嘱望される選手だった。
だが、高3の時に負った怪我により、少しずつサッカー選手としての歯車がずれていった。高2の時に頻繁にFC東京の練習に参加し、「このまま高卒で入るのだろうと思っていた」が、怪我によって半年間もの長期離脱をするとその話は無くなった。
前橋育英高校サッカー部の山田耕介監督から大学進学も勧められたが、廣瀬はこれを拒否。高卒プロ一本に絞り、高校最後の大会である全国高校サッカー選手権大会を就職活動の場と位置付けた結果、J2・モンテディオ山形からオファーが届いた。
必死の思いで掴み取ったプロサッカー選手としての人生。
「J1に昇格をして、活躍をして日本代表に入りたい」。
ルーキーならば誰もが持つこの志を彼も抱いてプロキャリアをスタートさせた。だがキャリアを積めば積むほど、自分の目標設定が本当に正しいのかを考えるようになった。
最初の衝撃はプロに進む直前の2008年1月、U-18日本代表としてカタール国際ユースに出場をした時のことだった。日本の10番を背負った廣瀬だったが、この時のエースは8番を背負った香川真司だった。
「香川くんは両足をうまく使って懐が深いプレーをする。体のサイズは変わらないのにその技術と判断の質を見せつけられてしまったら、全然敵わないと思った。そこから自分の実力に少し疑問を持つようになってしまった」。
プロ2年目でチームはJ1昇格。廣瀬もJ1リーグ16試合に出場し、プロ初ゴールをマークした。しかし、それでも違和感は拭えなかった。
「同年代や歳の近い選手が活躍していく中で、僕はプロ3年目で試合にあまり出られなくなり、プロ4年目ではJ2降格を味わってしまった。5年目でJ2を戦っている時に、『プロサッカー選手としてのこの華やかな生活は続くものではない』と考えるようになりました」。
プロ選手としての危機感を覚える中で、廣瀬は具体的なアクションをしていた。プロ4年目の2011年に彼は自分の名刺を作って、サッカー関係以外の人たちと出会う度に名刺交換をしていた。
「モンテディオ山形所属、プロサッカー選手 廣瀬智靖」
Jリーガーで自分の名刺を持っている選手はほとんどいない。なぜ彼は名刺を作ろうと思ったのか。もともとサッカー界だけに身を置くことに疑問を感じていた彼は、「サッカー界だけだと自分の視野が狭くなる。他の業種の人たちや自分の知らない社会を知っている人たちとなるべく知り合って、価値観を広げたいと思った」と、積極的に人脈を広げていた。
プロサッカー選手の中で異業種の人たちと積極的に会う選手たちはいる。だが、彼はただ会うだけではなく、自分という人間を知ってもらい、より有益な情報を得て自分の成長につなげようとする意欲が強かった。
「相手は自分のことを『プロサッカー選手』として見てくれるかもしれませんが、プロサッカー選手の看板が外れた時に、必ずしもこれまでと同じ目で見てくれるとは限らない。だからこそ、初対面の印象が重要なんです。『初めまして』と挨拶をして名刺を手で渡すことで、決してマイナスの印象を与えない。
サッカー選手にそういうイメージを持っていない人が多いからこそ、インパクトがあると思いました。それにプロサッカー選手のバリューがある時にうまくそれを使っておく手はないなと」。
さらに彼にはもう1つの武器があった。それがアパレルだった。プロ1年目の頃におしゃれな先輩たちに洋服を教えてもらったことで、彼の好奇心に火がついた。お気に入りの服を買って着るだけではなく、服の種類や生地、他の人たちのアパレルへの見方や考え方にまで興味が行くようになった。そこで養われた着眼点や見識が、他業種の人たちとの会話の中で大きなフックになったのだった。
サッカーにアパレル、そしてこの2つで得た多角的な視点。人と会って終わりではなく、礼節を大事にし、かつコミュニケーションを深められたことで、彼の人脈は後に自分の人生を大きく左右させるものへと昇華されていった。
そして2012年、彼は1つのターニングポイントを迎えた。この年の7月に行われたロンドン五輪だった。U-23日本代表のメンバーに廣瀬の名前はなかった。
「アジア予選にも選ばれていませんでしたが、『チャンスはある』と思って目指していました。でも、絡めなかった。もうトップは目指せないと思ったんです」。
次なるステップに行く時期が近づいているかもしれない。若干23歳、世間で言えば大学卒業1年目の段階で、彼は一つの区切りを考えるようになった。
もちろん真面目な彼はサッカーに対して手を抜いていたわけではない。それまでもロンドン五輪を経て日本代表になるという明確な目標を達成するべく、1日1日をどう過ごすかを考えながら練習に励んだ。
だが、「頑張りました」だけではどうにもならない現実もある。その現実から目を背けることなく、受け入れる準備をしながら、彼は『プロサッカー選手としての自分』と『その先の自分』を視野に入れながら日常を過ごすようになった。
プロ7年目の2014年に、J1へ昇格した徳島ヴォルティスに移籍。しかし、このシーズンはリーグ3試合しか出場できず、チームも1年でJ2に降格。
「自分のキャリアではJ1とJ2を行き来する選手で終わる。到底日本代表にはなれないと限界を感じた」。
徳島に完全移籍をして迎えた2015年。前述した通り、彼にとって現役最後の1年となった。このシーズン、彼はキャリアハイとなるリーグ25試合に出場をしている。周りからすると「これから飛躍する」という期待感があったが、彼はもう夏の段階で引退を決めていた。
セカンドキャリアをどうするか。彼の目にはアパレル業界という一本の道筋が見えていた。アパレルと一言で言っても様々なアプローチがある。よく自分でデザインをしてセレクトショップを開いたりするケースは多く聞くし、現役をしながらブランドを立ち上げる選手もいる。だが、彼の場合は少し違った。
「この時にはアパレルの販売や製造に携わりたいと思っていたんです。それにアパレルの世界に足を踏み込むのであれば、ゼロから学びたかった。サッカー選手の片手間に関わるようなことはしたくなかったんです」。
プロサッカー選手としてのラストイヤーは全力でサッカーに打ち込む中、大きな出会いがあった。知人の伝手で、徳島にあるトランクスや水着などを扱ったアパレルブランド『NALUTO TRUNKS』の山口輝陽志社長と繋がるチャンスを得ると、廣瀬はすぐに名刺を持って会いに行き、アパレル業界に対する熱い気持ちをぶつけた。
「アパレルなんてやめたほうがいい。君が来る世界じゃないよ」。
最初はこう突っぱねられた。だが、廣瀬は諦めることなく、何度も山口社長に自分の熱意を伝えながら、実際にトランクスを何枚も購入して、『NALUTO TRUNKS』の商品を知り、その上でアパレル業界の知識を得ようとコミュニケーションを取り続けた。
次第に心を開いてくれるようになった山口社長に、自身の引退を伝えたのは10月末のことだった。山口社長はすぐに「お前、この後はどうするんだ」と気にかけてくれた。そこで変わらぬ熱意を伝えると、山口社長は真っ直ぐに廣瀬を見つめてこう言った。
「本気でアパレル業界に行くならば、物づくりや基礎をちゃんと学べるトゥモローランドで働いたほうがいい」。
株式会社トゥモローランドは東京に本社を置いて全国展開をする会社で、日本有数のドレス・カジュアル服のブランド及びセレクトショップだ。買い付けだけでなく、自社で物作りをしているトゥモローランドなら幅広いノウハウを学べる。トゥモローランドと取引をしている山口社長はその場で担当者に連絡を入れ、シーズン終了後に面接することが決まった。
そして、面接を経て内定をもらい、2016年2月から働くことになった。
「茨の道だと思っていたので、覚悟はできていました」。
一見スムーズに実現したセカンドキャリアはそんなに甘いものではなかった-。
後編はこちらからご覧ください。
廣瀬智靖(ひろせ ともやす)
1989年生まれ。埼玉県出身の元プロサッカー選手。ポジションはMF。前橋育英高校時代には世代別代表に選出。高卒で2008年にモンテディオ山形に入団し、その後徳島ヴォルティスへの移籍も経験。2015年、26歳の若さで現役を引退。
引退後は、株式会社トゥモローランドに入社し、アパレルの世界へ飛び込む。入社当初は新しい世界で壁にぶつかるが、4年目で店舗マネージャーに昇進するなど活躍。2021年に同僚が立ち上げたアパレル会社、マーマレーション株式会社に入社。自身が手掛けるオーダースーツレーベル『I’ll be』を立ち上げる。