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掲載日:2026.9.4
最終更新日:2026.9.4
【前編】消えかけたサッカーへの情熱と地元からの後押し。だから瀬沼は相模原に返し続ける
神奈川・桐光学園高から筑波大学へ進み、全国レベルの舞台で実力を磨いた瀬沼優司。2013年に清水エスパルスとプロ契約を結び、栃木SCや横浜FC、SC相模原など通算7クラブでプレーし、2024年に現役引退。 現役中の2021年、姉と地元・相模原市で訪問介護の会社を設立し、経営者とJリーガーを両立。引退後は1年で資格を取得し介護の現場へ。2026年からは週2日の現場実務に加え、古巣・SC相模原のアンバサダーや、友人との自動車関連会社設立など活動の幅を広げている。 今、彼は大きな使命感を持って発信を続ける。「介護の世界を知ってもらいたい」という思いと、尊敬する人物の「毎日少しでも積み重ねることが大事」という言葉を体現したいという願いが込められている―。 彼のキャリア変遷と未来へのビジョン、サッカーを通じて学んだこととは。話を聞いた。
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INTERVIEWEE
瀬沼優司(株式会社セヌ― 取締役)
interviewer / writer:Takahito Ando
地元はサッカーを続けさせてくれたかけがえのない存在

「僕の中で『地元』というのはかけがえのない場所なんです。それは年齢を重ねれば重ねるほど強くなっていく。僕の人生の中で相模原という土地はとても重要で、欠かせない場所なんです」

1990年9月1日、瀬沼は神奈川県相模原市で2人兄弟の長男として生を受けた。後に語る地元愛とは対照的に、彼のサッカー人生は高校進学以降、地元を離れる時間が長かった。高校こそ県内の桐光学園だったが、大学で茨城県の筑波大学へ進学した以降、プロ6年目の2018年途中に横浜FCへ加入して2年半を過ごした時期を除くと、2023年途中に地元・SC相模原へ加入するまで、県外での生活が続いた。

 

「もちろん地元は住みやすいし、居心地もいいです。でも、それ以上に相模原という土地は、サッカーから離れそうになっていた僕を引き戻してくれて、一生モノの宝物を与えてくれた、本当に大切な場所なんです」

両親のためにサッカーを続けるも、毎日、辞めたかった中学時代

そう語る彼は中学生の頃、本気でサッカーを辞めようと考えていたという。上溝南小学校のサッカークラブで楽しみながらプレーし、身体能力を活かしたストライカーとして活躍。進学した上溝南中学校でもサッカー部の絶対的なエースストライカーとしてチームを引っ張った。

 

中学2年生の時には、東京ヴェルディのアカデミーが主催する大会で大活躍を見せ、得点王を獲得。そのまま東京ヴェルディ・ジュニアユースから勧誘を受けるほどの存在になった。

 

しかし、そのオファーを彼は断った。理由は「サッカーを続けていく自信がなかったから」だった。

 

「中学2年生の夏に3年生が引退して、僕が新チームのキャプテンになったんです。そこから変にプレッシャーを感じてしまったというか、どんどんサッカーが楽しめなくなりました。それに、部活を辞めようとする選手たちがいて、キャプテンとして説得していた時期もあったのですが、説得しきれずに3、4人の仲間が辞めていった。それもあって、さらにプレッシャーというか、自分の力のなさというか、自分自身が揺らぎ始めてしまったんです」

 

そこから毎日のように「サッカーを辞めたい」と思うようになった。練習も楽しくなくなっていく一方で、試合では不動のレギュラーとして出場し、ゴールという結果も残していた。それでも、一度生まれた心の隙間は埋まることがなかった。

「中学3年生になってからも辞めたい気持ちが全然消えなくて、県北トレセンに入っていた時に『関東トレセンへ行ってほしい』と言われたのですが、それも『行きたくないです』と断ったんです。上のステージに行って、もっと成長しようという意欲はほとんどなかったし、何よりサッカーへの情熱そのものが消えかかっていたんです」

 

それでも彼がサッカーを辞めなかったのは、「中学だけは最後まで続けてほしい」という両親の言葉があったからだった。その約束だけは守ろうと心に決め、踏ん張り続けた。

 

そんな彼を支えてくれたのは両親だけではない。小学生時代の恩師や中学校の指導者も熱心に背中を押し続けてくれた。

地元のサッカー名門校への進学が決まり、小学生の頃の夢を思い出すー。

「周りから『それだけの能力があるのだからサッカーは続けたほうがいい』と言われていました。最初はそれが嫌でしたが、徐々に『それだけ自分を評価してくれているんだ』と感じるようになったんです。それでも中学で辞める意思は変わらなかったのですが、中学3年生の夏に監督の知り合いを通じて『桐光学園の練習に参加してみないか』という話をいただいたんです。それが僕にとって大きなターニングポイントになりました」

 

当時、彼のもとには複数の高校からオファーが届いていたが、まったく興味を示さなかった。その中で、ある別のクラブの指導者が「これだけの才能を潰してはいけない」と、つながりのあった桐光学園へ彼の存在を伝え、練習参加が実現したのだった。

 

「県北トレセンの時に仲間が『俺はこの高校を狙っている』『ここがダメだったらここにする』と進路について真剣に考えている姿を見て、少し冷めた自分がいたんです。でも、桐光学園という、神奈川の誰もが知っているサッカーの強豪高から練習参加の打診が来たのは驚きだったし、『ちょっとチャレンジしてみようかな』という気持ちが芽生えました。これは相模原の人たちが僕のことを思ってつないでくれた縁だと思ったので、それを無下にはできないなと思ったんです」

 

桐光学園への練習参加を両親に伝えた時、うれしそうな表情を浮かべたことも、再びサッカーへの情熱に火をつけるきっかけとなった。その笑顔を見て、彼は小学生時代の卒業文集を思い出した。

 

「実は卒業文集に『桐光学園に行って全国に出る』と書いていたんです。正直、すっかりそのことを忘れるくらいサッカーが嫌になっていたのですが、『ああ、そうだったな』と思い出しましたし、『やっぱり、もう一度サッカーを一生懸命やろう』という気持ちが湧いてきたんです」

 

練習参加後、すぐに合格を勝ち取り、消えかけていたサッカーへの情熱は再び燃え始めた。桐光学園では厳しい環境で苦労の連続だったが、「相模原の人たち、桐光学園のスタッフがみんな、僕の背中を押してくれた」という思いを胸に、前向きに努力を続け、2年生でエースストライカーの座をつかみ、年代別日本代表にも選出。3年生ではJクラブからも注目を集める存在となった。

 

相模原という温かい地元があったからこそ、サッカーで上を目指せるようになった。その気持ちはずっと心の底にあります

 

高校卒業後、プロ選手を多く輩出する筑波大学を経て、2013年に清水エスパルスへ加入し、プロとしてのキャリアをスタートさせた瀬沼。そして、地元への感謝の思いは、プロになってからさらに大きくなっていった。

 

中編はこちらからご覧ください。

瀬沼優司(せぬま ゆうじ)

神奈川県相模原市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはフォワード(FW)。

桐光学園高校で2年時からエースストライカーの座をつかみ、年代別日本代表にも選出。筑波大学に進み、4年時の2012年に特別指定選手としてJリーグ初出場・初得点を記録すると、2013年に清水エスパルスへ入団する。185cmの高さを活かした空中戦とポストプレーを武器に、栃木SC、愛媛FC、モンテディオ山形、横浜FC、ツエーゲン金沢と渡り歩き、2023年7月には地元のSC相模原へ加入。同シーズンはリーグ17試合2得点でクラブのJ3残留に貢献し、翌2024年はリーグ32試合3得点を記録。同年限りで現役を引退し、12年のプロキャリアに幕を閉じた。

現役中の2021年には姉とともに相模原市で訪問介護事業を営む会社を設立し、取締役に就任。引退後の2025年は介護福祉士実務者研修を修了し、経営者としてだけでなく一職員として現場に立つ一年を過ごした。現在はSC相模原アンバサダーとしての活動やSNS・講演を通じた介護業界の発信、自動車関連事業にも取り組む。「地元への恩返し」と「サッカーへの恩返し」を軸に、相模原の地で挑戦を続けている。

CREDIT
interviewer / writer : Takahito Ando
director / editor : Yuya Karube
assistant : Hinako Murata / Makoto Kadoya / Kenshiro Hirao
SPECIAL THANKS
宮下幸一
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