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掲載日:2024.3.5
最終更新日:2024.3.5
【前編】人生の綾の中でも責任感とやりがいを見出す力を 赤星貴文が這い上がって挑む地方クラブの発展
赤星貴文は高校時代からコミュニケーションに長けた選手だった。人見知りを一切せずに、初対面からきちんと目を向けて、時には笑顔を浮かべながら私の質問にしっかりと答える。すぐに意気投合し、そこからは常に裏表のない彼の立ち振る舞いや笑顔を見てきた。「サッカー選手としてだけでなく、一人の人間としても面白い人生を歩んでいきそうだな」10代の彼を見てそう思っていたが、あれから20年近くの歳月が流れ、彼はその通りの人生を歩んでいる。彼は今、スパイクを脱いで社長としてサッカークラブの経営を任されている。久しぶりに取材をしても一切変わらないフランクで裏表のない彼は、これまでどんな人生を送り、何を目指しているのか。彼の飾らないコミュニケーション能力の真実に迫った。
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INTERVIEWEE
赤星貴文(株式会社モスペリオ 代表取締役)
interviewer / writer:Takahito Ando

前編では赤星の激動のサッカー人生について振り返って行きたいと思う。

 

赤星貴文は1986年5月27日に静岡県富士市で生を受けた。サッカーにのめり込んだ彼は中学時代に富士市を離れて、静岡県中部地区にある清水エスパルスのジュニアユースに進み、高校は同じ中部地区の藤枝東に進学。1年時からレギュラーを掴むと、背番号10として高校年代屈指のMFへと成長を遂げた。

 

卒業後は浦和レッズへ加入。細貝萌とともにスーパールーキーとして鳴り物入りで強豪クラブに進んだが、そこで待っていたのは分厚いプロの壁だった。2005年のルーキーイヤーはJリーグデビューこそ果たしたものの、出場は2試合にとどまった。続く2年目、3年目とリーグ出場はゼロに終わり、プロ4年目の2008年にJ2の水戸ホーリーホックへレンタル移籍。

そこで不動のレギュラーを勝ち取って、リーグ41試合出場で8ゴールと大暴れをし、翌年に浦和に復帰。しかし、それでも浦和の選手層の壁を打ち破れず、リーグ出場がないまま途中でJ1のモンテディオ山形に期限付き移籍。そこでリーグ8試合出場を果たしたが、その年のオフに浦和から契約満了を告げられ、山形への移籍も叶わなかった。

 

ここまではある意味、順風満帆だった学生が、プロではなかなか活躍できずに満了を受けるという多くの選手にあるストーリーだ。しかし、ここからの赤星の人生は誰にも真似できないような激動に次ぐ激動だった。

 

22歳でたどり着いた「人生のやりがいとは何か」

「人生初の0円提示を受けて、自分のサッカー人生に対する考え方が変わりました。それまでは日本代表入りを目指して、J1で活躍することばかり考えていたのですが、ここからはもう考え方を変えて、目標をしっかりと決めないと尻すぼみで終わってしまうと思いました」

 

この時の赤星の年齢は22歳。まだまだ若く、日本代表を目指しても何も問題がない。だが、彼はここで「人生のやりがいとは何か」を考えるようになった。

 

キャリアの晩年に差し掛かったり、30代前で引退を決断したりと、セカンドキャリアを意識しなければいけなくなった場合はこのような思考にも至るのは当然だ。

 

では、なぜ赤星は22歳の若さでその思考に至ったのか。それは彼が自身を「常に人生のやりがいを求めて突き進む人間」だとこの時点で理解していたからであった。

「僕にとって一度『0円の男』になったことで、変なプライドや体裁で取り繕うのではなく、強烈な危機感を持ってサッカーに向き合い直さないといけなくなりました。夢とか希望とか言っていられる状況じゃない」

 

背水の陣。尻すぼみの人生から這い上がるために選んだのはJリーグではなく、海外だった。シーズン後の2010年1月、赤星は海を渡った。最初に行ったのは地球の反対側のブラジル。サッカー大国でクラブを探して2週間が経とうとした時、「ポーランドのクラブなら可能性がある」と代理人から連絡が入った。

 

藁にもすがりたいと思っていた彼はすぐにブラジルからポーランドに飛んだ。しかし、練習参加こそすれど、オファーはもらえず、合計1ヶ月半の時間をかけても所属クラブが決まらぬまま無念の帰国となった。しかし、この1ヶ月半で彼は大きな目標を定めることができた。

 

「ポーランドでの日々が本当に刺激的で、海外でプレーをしたい気持ちが固まった。言葉が通じないとかどうでもいい。ピッチに立ったらどこの国だろうが、リーグだろうが絶対にやってやるぞという気持ちしかなかったし、夢とか希望を言う前に、自分の人生を変えるために日本ではなく、サッカー面でも生活面でも厳しい環境に飛び込んでやろうと覚悟が決まった。その気持ちは日本に戻ってからも消えるどころか、どんどん大きくなっていったんです」

 

夏の移籍ウィンドウで再びチャレンジすることを決めた彼は、そのチャレンジを了承してくれた当時JFLのツエーゲン金沢に移籍をし、5ヶ月間プレーをしてから再び海を渡った。

そして彼にとって最初の海外クラブになったのは、東欧の小国・ラトビア1部リーグに所属するSKリエパーヤ・メタルルグス。赤星がこれから歩むことになる、刺激的な人生の始まりにふさわしいクラブだった。

サッカーを通じて得たのは、競技に打ち込む喜びと広がり続ける世界

ラトビアに来てすぐに持ち前のコミュニケーション力の高さで周囲の信頼を掴んで出番を得ると、UEFAチャンピオンズリーグ予選2回戦のスパルタ・プラハ戦にスタメン出場をするなど、日本では経験できない貴重な体験を積み重ねていった。

 

「全体のレベルはそこまで高いわけではないですが、個々に能力の高い選手がいて、その選手がロシアなどのいいクラブに移籍をする姿を何度も目の当たりにしました。やっぱり日本とは違って、ヨーロッパは国同士が地続きなので、頻繁にいろんな国からの情報やオファーが来ることがめちゃくちゃ新鮮でした。

 

A代表に入らないといけないとか、レベルどうこうではなく、純粋にそうした環境が自分にとってサッカーに打ち込む喜びを与えてくれたんです」

 

小さい時からエリート街道を歩んできて、どこかで日本代表やW杯などの煌びやかな世界を目指すことが義務のようになっていた。

 

だからこそ、浦和でうまくいかなかった日々は「同い年の(細貝)萌、(本田)圭佑、岡崎慎司などが活躍をしているのに、自分はどんどん取り残されていって、情けないと思っていたし、焦っていました」と、自分に向き合う前に周りの目や体裁を気にして、自分らしくサッカーに打ち込めていなかった。

 

だが、海外に乗り込んでからはそんな雑念は一切なくなり、「いろんな国のリーグに挑戦したいと思うようになりました」と価値観は大きく変わった。

ラトビアで4ヶ月プレーすると、念願のポーランドからオファーがあった。ポーランド2部リーグ(Ⅰリガ)のMKSポゴニ・シュチェチンに加入をした赤星は、2年目でレギュラーを掴むと、その年に1部リーグ(エクストラクラサ)に昇格。1部で2年間不動の存在としてプレーをした。

 

「ポーランドリーグは今ユベントスでプレーをするアルカディウシュ・ミリクなど能力の高い選手がいました。国も治安がいいし、綺麗な街で本当に居心地が良かった。でも、4年目にだんだん『他の国にも行きたいな』と思うようになりました」

 

もっと違う環境に行きたい。赤星は2014年7月にロシアプレミアリーグのFCウファに移籍。ここではポーランドと違って強度の高いプレースタイルに苦しみ、怪我を繰り返して半年強で再びポゴニ・シュチェチンに戻ったが、ロシアでは「ちょうどウクライナとの関係が悪化し始めたときで、政府の混乱を経験した。なかなかできない経験だった」と、そこでもこれまでなかった体験をし、より広い知見を得た。

 

シュチェチンでは1シーズン半、移籍前と変わらず主軸としてフル稼働。そしてさらなる世界の広がりを求めた赤星はタイからのオファーに応じ、タイで2年間プレーをすると、2018年2月にイランのフーラードFCに移籍。

 

ここでのプレーは4ヶ月間だったが、アフガニスタンとの国境沿いのアフヴァーズという街は石油関連工場から排出される大量の煙で深刻な空気汚染に包まれ、練習中からむせるほどだった。国内でも人気クラブで巨大なスタジアムが満員になることもあったが、給料未払い問題にも巻き込まれるなど、決していい環境ではなかった。

 

「もうイランのアフヴァーズまで来ちゃったら、怖いものなしですよ(笑)。『どこ行っても平気だ』と思えたので、選択肢がまた広がりました」

 

だが、こう話していた赤星は2019年8月にフーラードFCからインドネシアのアレマ・インドネシアに移籍をし、半年プレーをしてからプロサッカー選手としての『事実上の引退』となってしまった。

 

彼は今、日本にいる。2021年に地元・富士市と富士宮市に本拠地を置く、静岡県1部リーグ所属の岳南Fモスペリオに選手兼営業として加入し、サラリーマンをしながらプレー。昨年をもって選手を正式に引退し、今年から代表取締役となったのだった。

 

「人生、何があるかわかりませんね(笑)」

 

昔と変わらぬ笑顔で話す彼はなぜ、海外永住も意識をしていた中で日本に、地元に戻ってきたのか。後編ではこの経緯と未来への展望を掘り下げていく。

 

後編はこちらからご覧ください。

赤星貴文(あかほし たかふみ)

静岡県富士市出身の元プロサッカー選手。ポジションはMF。

中学時代から年代別の代表に名を連ね、2005年に浦和レッドダイヤモンズに入団。加入1年目から公式戦デビューを果たす。その後は水戸ホーリーホックやモンテディオ山形、ツエーゲン金沢への移籍を経験。2010年より海外クラブを渡り歩き、2021年4月に引退を発表。現役時代は卓越した足元の技術をベースに広い視野からゲームを作って行く冷静さと躍動感を兼ね揃えたMFとして活躍した。

帰国した2021年5月に引退を撤回、地元富士市で活動する静岡県社会人サッカーリーグ1部の社会人チーム岳南Fモスペリオに選手兼営業として加入。2023年10月、再び現役引退を発表し、2024年より同クラブの代表取締役に就任している。

CREDIT
interviewer / writer : Takahito Ando
editor : Takushi Yanagawa
director : Yuya Karube
assistant : Naoko Yamase
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