-日産から突然横浜マリノス株式会社の社長を命じられて、そこから今日までは怒涛の20年だったのではと推察します。
日産の22年間もサッカー業界にきてからも、発見と軌道修正の連続で、どちらも転機の日々でした。
「スカイラインGTRを作りたい」と工場勤務希望で日産に入社したのに、イギリスに工場と会社を設立することになったり、30代後半で管理職の人事評価役になって周囲から距離を置かれたり、日産の経営が傾いてからは経営の改革を行ったりと、日産時代の方が転機としてはむしろ刺激的だったかもしれませんね。
そんな日々を日産で過ごし、45歳の時に当時社長だったカルロス・ゴーン氏から「マリノスの社長になってくれ」との命を受けました。当時は会社が傾いてきた時期で、厳しい報酬も受け入れざるを得ませんでした。
どれほど報酬が厳しかったかというと、管理職ですら奥さんがアルバイトをしなければ生活できないような状況で、私の妻も自宅近辺のスーパーでレジ打ちの仕事を1年ほどやっていました。家のローンも払えず、管理職なのに労働組合にお金を借りに行ったりしました。そのくらい苦労しましたよ。
会社も、本社ビルをはじめとして売れるものはとにかく売り尽くしているといった状態でした。そんな中でも横浜マリノスは毎年赤字ではありましたが、売却はしていませんでした。「2002年ワールドカップが日本で開催されるから、その時にマリノスのオーナーであれば従業員のモチベーションも維持できるだろう」という狙いもあったようです。
そんなマリノスに「お前行け」と言われたものですから正直、最初は左遷かなと思いました。ただ、当時は全国の工場をいくつか閉めて、連結会社に転籍した社長さんのところの株を売却していくといった厳しい施策を行っていた最中でした。
このような状況にあることを考えれば、マリノスの社長就任も良しとしなければと自分を納得させていました。結果として20年以上プロスポーツ業界にいます。
-複雑な思いで新しい場所に赴任され、結果として20年以上スポーツの世界にいらっしゃいます。その一番の根拠は何だったのでしょう。
私がこの業界に居続ける理由になっているのは2001年の体験によるところが大きいです。当時、名門と言われたチームが序盤戦から残留争いをすることになってしまいました。選手達がどれだけ悔しい思いをしているかは、それまでサッカーに縁のなかった私でも分かるほどでした。
それで夏の補強時期に何とか資金を調達して盛り返していき、最終戦の神戸ウィングスタジアムで残留が決まった瞬間、メディアの人達が両腕で(残留決定の)マルを記者席から送ってくれたりして。ゴール裏にも横浜から来た4〜5,000人が集まってくれていて、駅までの帰り道でも新幹線でもみんな大喜びでした。
マリノスに来る前は、日産で工場を閉めたことで怨まれたり、人があんなにもショックを受けている姿を目の当たりにした後ろめたさから自分を責めていました。
それとは対極にあるのがマリノスでの仕事だったんです。自分の手の届く、そして顔の輪郭がわかるほどの距離にいる人たちに泣いて喜んでもらえる仕事を自分ができるのだと思ったら、もう戻りたいとはまるきり思わなくなりましたね。
苦い思いをした人ほど、その真逆の状況が起こるとそれが強い動機づけになります。そういった体験のことを「転機」と呼ぶのではないでしょうか。僕の場合は、それが「日産からサッカー業界へ」というところだったのでしょう。
「勝つ回数が少なくても、勝てなくとも、グッドルーザーをチームで体現していこう」「試合を観た人が『今日は負けたけどOK、明日からも仕事頑張るよ、俺』って言えるような90分を作れ」と言い始めたのもここからですね。
-転機を迎えて動き出す人も少なくありませんが、転機に立つ前から準備できることはあるのでしょうか。
転機といえば引退やセカンドキャリアを思い浮かべる方も多いでしょう。ただ、セカンドキャリアはアスリートに限ったことではないし、転機も人それぞれにあるものだと思います。この考えを前提にすると、セカンドキャリアの前のファーストキャリア中からプログラムをいろいろと提供したり、20代の選手に対して研修を用意したりといった発想がもっとあってもいいと思います。
実は、「この人なら引退後に現場のコーチやフロントの仕事をやらせても大丈夫だな」と感じさせる資質や適応力は、20代前半の時点で経営者が1時間も話すと分かってしまいます。次のステップへのふるいがもうその時点で存在しているのです。
言葉遣いや人に対しての見方、勝ち負けを素直に受け入れる懐の深さ、状況把握能力の高さなどが主に見られています。そして20代で良い評価をされていると、引退発表の瞬間から引く手あまたというのも珍しいことではありません。
だから引退間近の選手や引退後に突然プログラムを受けるよりも、現役で本人にはまだそんな気持ちがない時から「20代前半のうちから見てる人は見てるよ」「こうなっていけば引退後に引く手あまたになるよ」という意識づけをさせる研修があるといいですね。
これはサッカーだけの話ではなくて、他のスポーツでも異業種でも、一人の人間として魅力のある人材が欲しがられるのは同じです。現役バリバリの時代から自分を磨く意識を持ってほしいと思います。
-身体能力以上に、メンタリティをはじめとするアスリートの能力の高さに期待した新規事業や経営戦略まで思いをはせる経営者もいます。
僕はマリノス時代から現役引退した人にフロントで働いてもらっていますが、彼らには大きな強みがあります。プロとして「来年契約がとれないかもしれない」という有期雇用でやってきた経験があるから、結果を出す責任感のレベルが正社員の方とは大きく異なります。
これは現役引退アスリートがほぼ皆持っている資質ですね。この資質はいい方向に発揮されることが多くて、その中には将来的には経営者になるだろうと思う人もいます。
こちらは数が限られるのですが、資金繰りや経営方針についての知識はなくても独自の経営センスで成功する人もいます。一般の企業経営者からは思いつきのように見えることが、ちゃんと当たってうまくいくんです。そして意思決定の手続きに長けた名参謀役が傍らにいると、独自のセンスを持った名社長ということになる。
この両方がプロアスリートにはいるので、彼らが一般企業の中にポンっと入るととても面白いと思いますよ。
-アスリートが引退後の進路を考える際に直面する壁や、それを乗り越える方法はあるのでしょうか。
アスリートが企業へもたらすメリットと同時に、懸念事項もあります。それは自身が身を置いた競技に対する強い想いです。例えばJリーガーであれば、サッカーが好きでしょうがないから一生サッカー界に貢献し続けたいと、大方の選手はそう思っているでしょう。
プロでやってきた選手はこれまでの学生生活においてスポーツ一筋で全国大会まで出て、プロアスリートとして第一線を歩いてきているわけです。
プロになるために色んなものを削ぎ落として、他の好きなものを全部断ち切ってやってきた選手たちは、ややもすれば「自分がやっているプロスポーツしか好きなものがない」という状況に置かれてしまいがちです。人間って、麻痺するほどに長く厳しくやっていると、そのやっていることを好きになってしまう。
だからこそ、その想いを少し和らげるための作業が必要だと思うのです。「あなたの能力は、他の業界ではこんな風に生かせるのだ」ということを、理屈や体験を通して実感できる場があるといいと思います。
そして指導者は、誰にもセカンドキャリアがあるということ、他にも好きになれる可能性をもつものがあるのだということを早くから選手達に認識させて、目覚めさせてほしい。
引退後に資格をとろうと言っても、人は好きでなければ動かないし長続きしないですよ。好きなものをまず作ること、ここがその後の全てにつながっていきます。自分はIT系のお遊びに興味があるとか相場が好きとか(笑)、それぞれ好きなものがあると思うので、「好き」を大事にして学んで、そして伸ばしていってほしいです。
今この瞬間にプロとなった選手も含めて、セカンドキャリアは誰にでもやってきます。引退は突然やってきて、セカンドキャリアも突然やってくる。先に言ったように、見る人は現役バリバリの頃から、「この選手は社会人としてどうだろうか」と見ています。
社会人としての自己研鑽は今すぐにでも始めて、「サポート事業や制度をうまく利用してやる」くらいのメンタリティを持ちながら1日1日のプロ生活を有意義なものにしてほしいです。
左伴繁雄(ひだりとも しげお)
慶應義塾大学法学部政治学科を卒業後、日産自動車に入社。英国日産自動車製造の設立に携わるなど主に生産畑を歩むが、2001年、45歳にして横浜マリノスの社長に就任。同年降格の危機に瀕したクラブの建て直しに尽力し、2003年、2004年にはリーグ連覇を達成させた。その後、湘南ベルマーレの専務取締役、清水エスパルスの代表取締役社長を歴任。J1・J2双方で優勝を経験し、優勝するために必要なチーム、フロントの在り方に精通する 。2020年3月から、誕生間もないB3リーグ所属のベルテックス静岡にて、「エグゼグティブスーパーバイザー」として営業活動に従事。2021年4月からは、熱烈なオファーを受けてJ3カターレ富山の代表取締役社長に就任した。