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掲載日:2023.7.26
最終更新日:2023.10.17
【前編】リレーションシップとコラボレーション。9年間出場ゼロだったGKがもぎ取った成功へのヒント
Jリーグに9年間所属しながら出場機会はゼロ。プロの世界で一度も日の目を見ることのなかった男が今、地元・徳島においてビジネスというフィールドで躍動している。阿部一樹は徳島県生まれのGKで、愛媛FCからそのキャリアをスタートさせた。2006年にトップチームへ昇格すると、その後は徳島ヴォルティス、セレッソ大阪への移籍を経験。2011年から再び徳島で3年間を過ごした。引退後はパーソナルトレーナーとして活動を開始。それまでになかったユニークなコンセプトを持ったジムを徳島県内各地で開くと、すでに県外にも広がりを見せている。そして今、様々なアイデアを生む青年実業家として、ビジネスシーンで日の目を見ることになった。彼はどのようにしてプロ9年間を過ごし、そして今の事業を軌道に乗せていったのか。彼のヒストリーに加え、ビジネスマンとなってからの経営術に迫った。
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INTERVIEWEE
阿部一樹(ボディデザイナー/学童クラブ代表/GKコーチ)
interviewer / writer : Takahito Ando
セカンドキャリアを一貫して支えたリレーションシップの原点

阿部一樹のサッカー人生、そしてセカンドキャリアを見ていると、『リレーションシップ』という1つのキーワードが浮かび上がってくる。

 

現役時代から彼は異業種の人たちとの交流が多かった。それは意図的だったわけではなく、当時のヴォルティスに徳島出身者が彼しかいなかったこともあり、地元の選手としてチームのスポンサーや企業の人たちが可愛がってくれたことが大きかった。

 

それに対し、阿部自身も持ち前のコミュニケーション能力と人懐っこさで、よりその関係性を密にし、広げていった。

 

「人と話をしていた時、その話題について以前どこかで似たような話を聞いたなと思い出すとするじゃないですか。そこで『多分同じようなことを考えていらっしゃる方が知り合いでいるので、繋げましょうか?』と言って、実際に繋げると一気にその2人の関係性が深まって新たな事業や人間関係が広がっていくことがあったんです」

 

現役時代から人と人を繋げることに抵抗がなく、むしろ新たな動きが生まれていくのを見ることに喜びを感じていた。それが彼の「リレーションシップ」の原点だった。

さらにその原点を深く紐解くと、そこには彼が現役生活でなぜ人付き合いを大切にするかの分岐点となる出来事があった。

 

徳島県で生まれ育った阿部は、高校進学と同時に同じ四国の愛媛FCU-18に進んだ。高校3年生になると、当時JFL所属だったトップチームのJ2昇格が決定。トップ昇格が決まっていた彼は、1年目でJリーガーとなった。

 

だが、これによりトップチームに所属する選手の質もグッと上がることになる。この年、チームは高萩洋次郎、森脇良太、菅沼実など、J1クラブで主軸を張っていたようなベテラン選手を次々と獲得。阿部のポジションであるGKも例外ではなかった。

 

「ユースでは主軸として四国で優勝をしていたので、自信を持って進んだのですがあまりのレベルの高さにかなり驚きました」

 

プロの壁にぶち当たる一方で、当時はチームもJ2に上がったばかり。環境面や私生活面において良くも悪くも「昭和のJリーガー」の名残があり、「これがプロサッカー選手の生活だと思っていた」と感化された阿部は、遊びに流されてしまうこともあった。

 

サッカーもうまくいかない、プライベートもだらしなくなる。結果、プロ1年目が終了する時には首脳陣に呼ばれ、「お前は何を考えてサッカーをしているんだ」と言われると、これまでのだらしなさを全て指摘された。

 

1年目で右も左も分からず、先輩について行ったら、それが当たり前だと思ってしまい、自分にとってマイナスのことにしかなっていなかった。だが、2年目になってもそれは変わらなかった。

トップチームに上がり、プロの壁に直面することになった

 

「高校3年生までは本当にサッカーが大好きで、サッカー中心の生活を送っていたのに、プロになってから1ヶ月もたたないうちにサッカーが楽しくなくなってしまったんです。

 

みんなと仲良くしたいのに、試合に出ていない選手は出ている選手のことを悪く言うし、練習後はただひたすら無駄な時間を過ごしているだけ。いつしか自分の中で覇気がなくなってしまっていたんです」

 

そしてプロ2年目の2007年に阿部は愛媛から契約満了を告げられた。彼にとって高卒プロからの2年間は『駄目になっていく選手の典型』とも言える内容だった。

 

「もういいや、サッカーをやめて他の仕事をしよう」

 

当然、次にする仕事のプランもなければ、野望もない。投げやりになっていた時、徳島ヴォルティスの強化部長に就任したばかりの中田仁司から一本の電話が入った。

 

「一樹、ヴォルティスに来ないか?」

 

阿部が小学生の時に、大塚製薬サッカー部のコーチをしていた中田に指導をしてもらった経験があり、その繋がりから自由契約になった阿部のもとに、思いもよらぬ話が届いたのだった。

 

だが、当時のヴォルティスのGK枠は埋まっており、トップチームへの加入ではなく、その下のセカンドチームの所属になるという提案だった。つまりプロからアマチュアへということになる。

 

それでも「愛媛で無気力な2年間を過ごしてしまったからこそ、もう後悔は絶対にしたくない。トップ昇格のチャンスがある環境なのは間違いないのだから、この1年間は必死でサッカーに取り組もうと思ったし、この時間は自分の人生にとってプラスになる」と、阿部はこの縁を大切にする覚悟を決めた。

 

まさに人との繋がりによって、切れかけていたサッカー選手の縁がつながった。

失った時間を取り戻すために、「絶対に向こう側に行く」

迎えた2008年。「セカンドとは言えど、地元のクラブに入れた喜びと、トップチームに何が何でも上がりたいというモチベーションに溢れていた」と、この1年間は彼の人生観を大きく変える時間となる。

 

シーズンが始まる当初、中田から「お前を長い目で見るけど、しっかりと勉強をしなさい。GKコーチのトレーニングの内容とか、感じたことをノートに書き留めておいた方がいい。将来、絶対に役に立つから」とアドバイスを受けた阿部は、その通り毎日の練習メニューや感じたことをノートに記した。

実際に使用していたサッカーノート。数々の学びが記されている。

 

アマチュア選手ゆえに収入は一切発生しない。そのため、お金の面は実家に住むことで両親からのサポートを受けた。

 

常に周りへの感謝と恩返しの気持ちを持ってサッカーに真正面から打ち込むことができたからこそ、セカンドチームの環境にトップチームとの大きな差があっても、それを言い訳にすることは一切なかった。

 

「純粋にサッカーがうまくなりたいと思ったし、隣でトップチームが練習をしているのをみて、『絶対に向こう側に行く』という気持ちを常に持てた。この1年間、本当に濃い時間を過ごすことができました」

 

人は環境によって自分を見失うこともあるが、逆に環境によって自分の大事なことに気づくこともある。2009 年に彼の努力は実を結び、ついに2度目のトップ昇格を掴み取った。

 

ヴォルティスのGK陣は愛媛よりハイレベルで、元日本代表の高桑大二郎らがおり、最年少だった彼の序列が変わることはほとんどなかった。しかし、高卒1年目の時とは違い、毎日がポジティブで何よりサッカーが楽しくて仕方がなかった。

 

「かつて日本代表だった選手など、ハイレベルな選手達と毎日練習ができて、技術面だけではなく、サッカーに取り組む姿勢、プロフェッショナルな考え方など、自分にとって勉強になる部分が本当に多かった」

 

毎日ノートに記すことが当たり前になり、ただ書くだけではなく、その意味を自分なりに考えたり、吟味をしたりしながら、血肉へと変えていった。

 

プライベート面でも彼は愛媛の頃とは違うアクションを起こした。「試合に出ている、出ていないに関係なく、みんなとコミュニケーションを取ろうと思ったんです」と、全員とグループや個別に食事に行って話したり、チーム内のコミュニケーションを円滑にするために間を取りもったりと、輪を作ることを大切にする行動を取り続けた。

 

選手としても人間としても大きく成長していった阿部は、2011年8月にJ1のセレッソ大阪に期限付き移籍を果たした。「最初はJFLのチームなどへのレンタルかと思ったのですが、いきなりJ1の名門クラブで驚いた」と、彼の真摯な姿勢が評価されての移籍だった。

セレッソでも出場はなく、半年後にヴォルティスへ戻ってきた。だが、アジアチャンピオンズリーグにも参戦していて、キム・ジンヒョン、松井謙弥、播戸竜二、永井龍、大竹洋平などそうそうたるメンバーがいたチームで、質の高い練習と超一流選手とコミュニケーションを深めたことで大きな財産を掴むことができた。大阪での人脈もここで培ったものだ。

2度目のゼロ円提示とボディデザインとの出会い

2012年から再びヴォルティスで3年間プレーしたが、たとえ一度も出番が訪れなくても、変わらぬ姿勢でサッカーに打ち込み続けた。2014年にチームはクラブ史上初のJ1昇格。阿部もその一員になった。しかし、このシーズンをもって、彼は2度目のゼロ円提示を受けることになる。

 

「2015年1月の第1週目にチームが決まらなかったら引退しよう」と決めていた阿部は、タイムリミットが来て引退を発表した。

 

プロサッカー選手人生が終わった。では、次は何をすべきか。2014シーズンの夏あたりから「今年で現役が終わるかもしれない」と予感をしていた阿部だが、引退後に何をすべきかが明確ではなかった。

 

自分に何ができるのか。いろいろな分野の人たちと話をしたり、食事に行ったりする中で、様々な人の意見を聞きました」

 

長いプロ生活の中でサッカー外での人脈も確実に広げていた阿部は模索を始めた。サッカースクールのコーチ、不動産屋、飲食などいろいろな仕事の誘いをもらうことができた。

 

その中で一番彼の興味を引いたのが「パーソナルジムやプライベートジムなどを経営したらどうだ」という話だった。

 

この時から、彼には身体を鍛えるプロフェッショナルになるという道筋がおぼろげながら見え始めた。興味を持って調べていくうちに、パーソナルトレーナーというジャンルを知り、それはただアスリートの身体を鍛えるだけではなく、老若男女の健康な人生を送るためのツールとしても活用されていることを知った。そこで初めて『ボディデザイナー』という言葉に出会った。

ボディデザインとは自分の身体を、自分自身がなりたいとイメージした身体にデザインしていくこと。その達成のために必要なトレーニング、栄養管理、そして生活改善など必要な要素を盛り込んで、総合的になりたい身体になっていく。ボディデザイナーはそれを実現させるコーチングをしていくプロフェッショナルのことを指す。

 

今でこそパーソナルトレーナーは市民権を得ているが、当時はまだそこまで一般的ではなかった。ここに目をつけた阿部は引退後、セカンドキャリアに向けて一気に動き出した。

 

彼はセカンドキャリアをパーソナルトレーナーからスタートし、奇抜かつ緻密なアイデアをベースに人と人、事業と事業をつなぎ合わせて、パーソナルジムをマネジメントをしていく経営者、実業家へと変貌を遂げていくこととなる。

 

後編は『ラーニング』の一環として、この変遷と今を描いていきたい。

 

後編はこちらからご覧ください。

阿部一樹(あべ かずき)

徳島県出身の元サッカー選手。ポジションはGK。
高校時代は愛媛FCのユースでプレーし、2006年よりトップチームに昇格。2008年に徳島ヴォルティスのセカンドチームに移籍すると、翌2009年にはトップチームへ昇格した。セレッソ大阪への半年間の期限付き移籍を経て、2012年より徳島へ復帰。2014年に現役引退。
2015年10月に徳島市内にてパーソナルジム「PRIVATE SPACE FAMIGLIA」を設立し、2022年4月には徳島市に民間の放課後学童クラブ「#スタトレ(ハッシュタグスタトレ)」を開設した。

CREDIT
interviewer / writer : Takahito Ando
editor : Takushi Yanagawa
director : Yuya Karube
assistant : Naoko Yamase
SPECIAL THANKS
My Daughter (娘)
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