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掲載日:2025.6.27
最終更新日:2025.6.27
【中編】過去の自分に戻ろうとしない。コンフォートゾーンを未来に作り切り拓いた、流浪のサッカー選手のそれから
これまで柏レイソル、FC岐阜、アビスパ福岡、モンテディオ山形、大宮アルディージャ、徳島ヴォルティス、清水エスパルス、Vファーレン長崎の8クラブを渡り歩き、オーストラリアを経て南葛SCで現役に幕を下ろした流浪のストライカー長谷川悠。彼は、今日本とオーストラリアを行き来するグローバルな活動をしている。彼のことは流通経済大柏高校時代から知っているが、当時から物腰が柔らかく、コミュニケーションスキルを持った人間だった。プロになってから、どのクラブに行ってもクラブと地域に順応する彼の姿を見て、「将来的に良いビジネスマンになるのでは」と思ったことを思い出した。彼は今、会社を立ち上げ、日本とオーストラリアのビジネスに励んでいる。共通の知人を通じて彼が永住権獲得を目指し、アスリートのメンタルコーチをしているという話を聞いて、彼のもとに足を運ぶ衝動に駆られた。
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INTERVIEWEE
長谷川悠(株式会社Nice and sunny 代表取締役)
interviewer / writer:Takahito Ando
契約満了にもかかわらず、一気に広がった目の前

前編はこちらからご覧ください。

 

「自分を表現することと、セカンドキャリアは自分で住む場所を選べる人生にすることは決めていて、その選択肢を広げるためにサッカーを続けようと思いました。『食事やヨガなどを本格的に学ぼう。これまでのように学ぶ時間を確保できるようなチームと契約しよう』と考えていたものの、それに適うオファーはありませんでした。

 

ただ、たくさんのチームを経験したことで、それぞれの土地に移っていく面白さも感じていましたし、いっそのこと海外に飛び出してみればもっと自信や自分の幅が広がるんじゃないかとも考えるようになったんです」

 

視野が一気に広がった。思い立ったらすぐに行動する長谷川は、既にオーストラリアで永住権を獲得し、交流もあった田代有三氏に連絡を取った。

 

「この国ではサッカーをする傍らで学校に通ったり、アルバイトをすることができる。自分がやりたいことを実践で学ぶことができるということでオーストラリアを選択しました」

 

だが、チーム選びは難航した。希望していた国内トップレベルのAリーグにアプローチをかけたが反応はなく、当時、田代が所属していた下部リーグのクラブにもアタックをかけたが、話は一向に進まなかった。それでも長谷川は諦めなかった。

 

「最終的にはアルバイトをしないといけないくらいのサラリーしかもらえないものの、自分に興味を示してくれる地域リーグのクラブがあると言われ、そこに決めました」

オーストラリア時代の長谷川(写真は本人提供)

新天地はウロンゴン・オリンピックFC。ボコボコのグラウンドでボールも空気が抜けていたり、ダメージが多かったりと、練習環境はお世辞にもレベルが高いとは言えない。これまで長谷川がやってきた環境から考えれば、まさに雲泥の差だった。

 

しかし、彼は「自分を表現できる場所」というマインドで臨んでいたため、そうした環境がかえって新鮮に映り、彼のチャンレンジャー精神に拍車をかけた。

 

サッカーとアルバイトを両立させながら新生活をスタートさせたが、ちょうどこの2020年は世界的なパンデミックが起きた時だった。オーストラリアもロックダウンに入り、試合はおろか、練習もできずに家に閉じこもる時間も続いた。

 

だが、そこでも長谷川は帰国しようとは一切思わなかった。「逆にオーストラリアのことをじっくり学ぶチャンス」と歴史の勉強をしたり、ホームステイ先の当時14歳の子どもにサッカーを教えるなど、やれることをやった。

 

マーク・ミリガンのもと、いきなりの指導者デビュー

その結果、ロックダウンが明けてから、必死でオーストラリアの文化を理解し、馴染もうとする姿勢に周りからの信頼が集まり、彼はチームの中心的な存在となった。2021年には2つ上のカテゴリーにあたるNPL(オーストラリア2部リーグ)のシドニー・オリンピックに移籍して1年間プレー。ここでは思うような活躍はできなかったが、2022年に再び地域リーグのセント・ジョージFCに加入すると、大きな出会いと異国の地でのターニングポイントが待っていた。

 

このクラブを率いていたのは、かつてジェフユナイテッド千葉でプレーしていた元オーストラリア代表のマーク・ミリガンだった。ミリガンは長谷川をすぐに信頼し、彼を選手との兼業としてU-14チームのコーチに任命した。

 

「いきなりの指導者デビューでびっくりしました。でも、そこで子どもたちを教える経験だけでなく、子どもや親たちのコミュニケーションを重ねることで英語も相当鍛えられました」

 

常にボイスレコーダーを持ち、子どもたちや親たちが言っていることを聞き直してから返したり、録音したものをチームメイトや英語の先生に聞かせて教えてもらったり、長谷川はチームの期待に応えるべく、必死でネイティブな英語に食らいついていった。

オーストラリア時代の長谷川(写真は本人提供)

「ミリガンのミーティングでもテレコを回して、帰りながらリスニングをしたりと、やれることは全てやっていました」

 

こうした経験を通して、彼は英語力の飛躍的な成長と、子どもたちを教える楽しさ、そしてオーストラリアの人たちとの交流から生まれた人脈を着実に広げていった。

 

2022年8月。ビザが切れるタイミングだったため、彼はクラブを離れ、帰国することになった。だが、ここで永住権を取れるかもしれないという話をもらい「この国でもっとやりたいという気持ちが強くなった」ことで、この帰国をあくまでも一時帰国として位置付けた。

「人生で一番悩み苦しんだ1年」とスパイクを脱ぐ決断

日本へ戻った彼は、まず「日本でサッカーをやりきりたい」と、サッカーを続ける場所を探した。そこで出会ったのが、南葛SCだった。

 

「東京でサッカーとビジネスを学びたいという思いもありましたし、何より南葛SCの動きが早かった。岩本義弘GMをはじめ、ビジネスに精通した方もたくさんいて、学べることが大きいと思ったので決めました」

 

南葛SCに入ってからもチャレンジの連続だった。2023年4月には自ら強く売り込んで、南葛のスポンサー企業であるバリュエンスホールディングス株式会社に入社。人生で初めての社会人となった。だが、「人生で一番悩み苦しんだ1年でした」と振り返ったように、やはり社会は甘くはなかった。

南葛SCでプレーする長谷川(写真は本人提供)

「クライアントに対して資料を作って、提案して、契約までいかなければいけないのですが、僕はなかなか会社に貢献できなかった。まず知識として知らないことが多すぎたというのもあるし、僕が一番思ったのは、『お金を稼ぐ』という思考がサッカー選手とビジネスマンで真逆だということでした。

 

サッカー選手は自分が商品なので、自分の商品価値を高めていく。でも、ビジネスマンは自分自身ではなく、取り扱うモノの商品価値を高めていく。エクセルやワード、パワーポイントなどを覚えれば、そこで活躍ができるかというと、それももちろん必要なことだけれども、それがすべてとは限らないんです。

 

自分が努力して取り組んでいることが、会社として求められているとも限らない。だから、自分が役に立っていないことを実感する度に、どんどん同僚や上司に置いていかれる感覚に陥る。チームとしては目標を達成したけど、自分は何もしていない。

 

そうなった時の一番の問題は、サッカー選手とは違って失敗が自分だけの責任にならないこと。僕がミスしたことが、その部署や会社全体の過失になるわけです。僕はサッカー選手脳でどんどん動いてどんどんミスするわけですよ。でも後々には『これをやって会社の価値を下げたら嫌だな』と思ってミスが怖くなる。それに対して手札もないので、他の打開策がなくなってより袋小路に入ってしまうという現象に陥りました」

 

会社に貢献できない自分、自分らしさを表現できない自分。これまで積み上げてきた自信が打ち砕かれた気がした。しかし、彼の根底のマインドだけは揺るがなかった。

 

「そもそも自分に絶対に必要な学びの時間だと思って、バリュエンスに入社したので、会社に対する申し訳ない気持ちは当然ありましたが、僕の中では大事なことを学べた重要な1年間でした」

 

2023年12月。彼はバリュエンスを退職し、同時に南葛SCも退団。スパイクを脱ぐ決断をした。

 

後編はこちらからご覧ください。

長谷川悠(はせがわ ゆう)

山梨県出身の元プロサッカー選手。ポジションはFW。

流通経済大学付属柏高校を卒業後、2006年に柏レイソルでプロキャリアをスタートした。以降、FC岐阜やアビスパ福岡、モンテディオ山形など複数クラブへの期限付き移籍を経験。さらに2010年にはモンテディオ山形へ完全移籍し、その後も大宮アルディージャ、徳島ヴォルティス清水エスパルス、V・ファーレン長崎と様々なクラブを渡り歩き、恵まれた体格を活かしたポストプレーと空中戦の強さでチームの勝利に貢献した。

2020年からはオーストラリアに渡ってウロンゴン・オリンピックFC、シドニー・オリンピックFCでプレー。2022年の帰国と同時に南葛SCへ加入し、2023年に現役引退を発表。およそ17年に及ぶ競技人生に幕を下ろした。

引退後は株式会社Nice and sunnyを設立。現在は街クラブGINGA FCのシューティングアドバイザー兼自己分析・メンタルアドバイザーを務めながら、VIRDSフットボールアカデミーでコーチとしても活動している。

CREDIT
interviewer / writer : Takahito Ando
director / editor : Yuya Karube
assistant : Makoto Kadoya / Naoko Kamada / Hinako Murata / Ayuto Uechi
SPECIAL THANKS
両親
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