サッカーエリートだった彼の幕引きはあまりにも突然だった。
青山といえば、名古屋グランパス、セレッソ大阪、浦和レッズ、徳島ヴォルティスでプレーをした選手で、少年時代から常に年代別日本代表に選ばれる逸材だった。宮城県仙台市で生まれ育った彼はFCみやぎバルセロナジュニアユースで1学年下の香川真司と共にプレーし、高校は名古屋グランパスU18に進んで1年生の時からボランチの中心選手として活躍をした。
代表ではU-15、U-16、U-17、U-18と常にメンバーに名を連ね、トップ昇格を果たした2006年にはAFCU-19選手権、プロ2年目の2007年には槙野智章、内田篤人、梅崎司、森重真人、香川らと共にU-20ワールドカップカナダ大会に出場。ボランチとしてチームのベスト16入りという躍進の原動力となった。
しかし、名古屋ではあまり出番に恵まれず、C大阪、徳島、浦和、とチームを渡り歩いた。年代別日本代表のチームメイトがJリーグで活躍をして、世界やA代表で躍進を見せる中、出場機会をなかなか掴めないまま、2015年に27歳の若さで現役引退を発表した。
引退後は俳優に転向。舞台やテレビドラマ、映画などへの出演をコツコツと重ね、今年は俳優転身8年目を迎えようとしている。俳優になってからの道も決して平坦なものではなく、プロサッカー選手と同じ、あるいはそれ以上に茨の道だった。それでも彼は真摯に演技と向き合い、貪欲にチャンスを求めながら、険しい俳優の道を一歩ずつ前に踏み出している。
「なぜ、27歳で引退したのか。」彼にこの疑問をぶつけた時、印象的な答えが返ってきた。
「自分でも分からないのですが、引退を決意したシーズンの最初に自分の中である異変が起こったんです。プロ生活も10年目を迎えていたので、当然良いシーズンもあれば、悪いシーズンもありました。浮き沈みの激しい中で、本気で悩んだり、モチベーションを上げたりしていたのですが、この年のキャンプがスタートをすると突然、今までの気持ちが全くなくなっていたんです」
それは2015年1月のことだった。徳島ヴォルティスに在籍をしていた青山は、2013年にレギュラーとしてチームのJ1昇格に貢献をした。しかし、自身3度目のJ1挑戦となった2014年は思うように出番がつかめず、リーグ戦出場わずか4試合にとどまり、彼にとっては失意の1年となった。
そして迎えた2015年。チームが始動し、キャンプインしたときのことだった。何かがおかしい。朝準備をして練習に向かおうとするが、やる気が起きない自分がいた。
全体練習が終わると当たり前のように自主トレを行っていたが、「早くホテルに帰りたい」とすぐに着替えてピッチを後にするようになった。紅白戦を戦っていても、闘志が一向に湧いてこない。
「あれ?おかしい…なぜなんだ?」
自分自身に対して疑問しかなかった。どんなに考えても体の芯が冷え切っているようで、これまでずっと心の中にあったサッカーに対する情熱が湧いてこない。
「これまで心の中にあったサッカーに対する『芯』の部分がなくなっていて、自分がピッチに立ってプレーしている意義すら分からなかったんです」
練習中に苦しくなった彼は、コーチ陣に「今、サッカーをやっている意味がわかりません」と想いを伝え、途中で練習から離脱をした。ピッチ脇で仲間がプレーする姿を見つめてから、一足早くホテルに引き上げた。部屋に入った途端に強烈な罪悪感に苛まれた。
「俺の行動は周りに凄く迷惑をかけている。もう27歳になろうとしている選手がこんな立ち振る舞いを見せて、若手に悪い影響を与えているんじゃないか。明日こそはモチベーションが戻っているといいな…。でも、戻らなかったら…」
自分を責めても、責めても、湧き上がってこないモチベーション。開幕スタメンを飾り、CBとして5試合連続のスタメンフル出場を果たしたが、それでも状況は変わらなかった。第6節のファジアーノ岡山戦でスタメンから外れ、その翌節からベンチ外になった時は心のどこかでホッとする自分がいた。
「普通、スタメンで試合に出たら『チームのために』、『このポジションを守りたい』、『次も出たい』と思うじゃないですか。そういう感情が一つもなかったんです。ピッチに立っている意味が一向に見出せなかった。徳島の代表として試合に出ているにもかかわらず、勝利への執念や戦う気持ちが僕だけ無くて、ましてや試合のための1週間の準備も怠っている状態。もはやプロサッカー選手とは言えなかった」
もちろん好きでそうなっているわけではない。やる気をなくして遊びに走っているわけでもない。「余計な夜遊びやギャンブルなどを一切して来なかった自分が、こんな状態になってしまうなんて…」と、自分でも理由が全く分からないからこそ、彼は苦しんだ。
「そういう自分が凄く嫌で…。これまでサッカーが大好きで、プロサッカー選手になるために努力してきたし、なってからも試合に出るため、より上のレベルでプレーするために自分を追い込みながらストイックにやってきたのに、その日々を自ら否定してしまっている。苦しくて仕方がなかった」
練習後、逃げるようにして自宅に帰り、体のケアもしなかった。いや、しなかったのではなく、できなかった。当然のようにベンチ外となっても、悔しいという感情が生まれてこなかった。徐々に練習中に吐き気を催してしまうようにもなった。実際に症状をトレーナーに相談したり、ドクターにも診てもらった。そのときの答えは「オーバートレーニング症候群に陥っているか、軽いうつ状態になっているかもしれません」というものだった。
確かに症状はオーバートレーニング症候群、あるいは鬱に近いものだった。筆者は当時の彼と一度会っているが、彼はサッカーを嫌いになったとか、自暴自棄になっているわけではなく、「何とかしようとしても何とかならない自分」に焦ってしまっている状態だった。気持ちの空回りと言うべきか、おそらく彼はサッカーに対して燃え尽きてしまっていたように見えた。
彼の人生を振り返ると、燃え尽きてしまった理由は前年の2014年シーズンにあったと考えられる。当時、彼はこのシーズンを「この1年はこの先、J1に定着をしてプレーすることができるか、日本代表に入れるか、自分のプロサッカー選手としてのキャリアの今後を大きく左右する一年になる」と口にしていた。
宮城県仙台市生まれの青山は、中学卒業と同時に名古屋グランパスU18にやってきた。「中学生ながらにプロサッカー選手に『なりたい』ではなく、『ならないといけない』という覚悟を持って名古屋に行きました」と語ったように、見ず知らずの土地で彼はプロになるために必死にサッカーに打ち込んだ。その結果、冒頭で触れた通り彼は年代別日本代表に選ばれ続け、2006年にはトップ昇格を果たすなど、順調に成長を遂げた。
しかし、プロになってからは苦難の連続だった。名古屋では2年半の在籍でほとんど出番は得られず、2008年5月に当時J2だったC大阪に期限付き移籍。ここで出場機会こそ得たものの定着には至らず、2009年に徳島へ期限付き移籍。このシーズン、ついに徳島でレギュラーの座を掴み、キャリアハイとなるJ2リーグ45試合への出場を果たした。
2010年には完全移籍に切り替え、2011年にはJ1の浦和へ完全移籍をしたことで、「ついに這い上がることができた」と2度目のJ1挑戦を手にし、プロサッカー選手として大きな手応えを掴んだ。
しかし、浦和ではリーグ戦わずか1試合の出場にとどまり、2012年に徳島へ期限付き移籍。そこで再び輝きを取り戻し、徳島へ2度目の完全移籍となった2013年には再びレギュラーを掴み取り、チームのJ1昇格に大きく貢献した。
その上で迎えた2014年だった。浮上するきっかけを幾度となく掴みながらも、その度に波に乗り切れなかった。気がつけば年齢は25歳。サッカー選手としては中堅に差し掛かっていた。
その間にも、FCみやぎバルセロナジュニアユースの1学年下の後輩である香川真司、名古屋U18の1学年下である吉田麻也が世界に羽ばたいて、A代表に定着をしている。U-20日本代表のチームメイトで同級生の内田篤人、槙野智章もトップ選手に駆け上がり、同代表では青山の控えだった森重真人もA代表に食い込んでいた。
「周りがどんどん出世していく中で焦りもありました。絶対に負けたくない、追い越したいと言う気持ちがピークに達していたのが2014年でした」
しかし、現実は甘くなかった。自身は4試合の出場にとどまり、クラブはJ2へ降格。「ラストチャンス」と位置づけて臨んだにも拘らず、期待していた1年とは程遠い結果に終わった。冬の移籍市場では他のJ1クラブへ移籍寸前まで進むも、最後の最後で破談となった。
「あ、やっぱり俺はJ1から求められていないのか。それとも縁がないのか?」
そう思った瞬間、今まで張り詰めていた糸が切れた気がした。これがプロサッカー選手・青山隼としてのモチベーションが途絶えた瞬間であった。
そして2015年。強烈な脱力感に襲われる自分がいたが、それでも「またシーズンが始まれば、自然とモチベーションが上がってくるだろう」と思っていた。だが、「勝負の1年」の反動はあまりにも大きかった。
ピッチ内だけではなく、家にいても深い海の底に沈んでしまっているような感覚を覚え、家から出る気持ちにもならなかった。まさにどん底に叩き落とされた。
「なぜ去年までできていたことができないんだ。もう限界だ。サッカーから離れる時が来てしまった」
ではこれからの人生、何をするべきなのか。実はこのとき、彼の中には俳優という道がすでにあった。きっかけは彼がプロ入りした2006年に遡る。プロ入りが決まった日に彼は、自身の親に報告した後、叔父と叔母にも同様の報告をしている。その時に2人からこう言われたのだった。
「おめでとう。でも、サッカー選手なんて50歳、60歳までできることではないし、隼はこれまでサッカーしかやってきていないのだから、プロになって時間ができたら、何をやるかやらないかではなくて、サッカーを必死にやりながら、次の人生のことも考えて、視野を広げながら過ごしなさいよ」
この言葉の意味はとてつもなく大きかった。実は彼の叔父は数多くのヒット作を世に出してきた稀代の作家で、作詞家でもある伊集院静。そして叔母は名女優の篠ひろ子。芸能界の酸いも甘いも全てを知る2人からの言葉は、青山の中で「常に視野を広く持ち続けないといけない」という人生の教訓を与えてくれるものだった。
プロサッカー選手としての日々を過ごしながらも、遊び呆けたり、私生活を疎かにすることなく、彼はいろいろな人の話を聞いたり、交流をして見聞を広めた。
そして浦和に在籍をしていた2011年。都内で突然叔父に呼び出された。
指定された場所に行ってみると、そこには叔母ともう1人の男性が座っていた。その男性は芸能事務所の関係者だった。そこで名刺交換をしたのち、芸能界についていろいろな話をしてもらった。
「具体的にどうこうという話ではなくて、自分が知らない芸能界のことや俳優などの話をたくさん聞いたことで、すごく刺激になりました。おそらく僕の知見を広げるためにセッティングをしてくれたのだと思います」
そこからテレビや雑誌などを見る目が変わった。「もし、自分がこの世界に入ったら」と思うこともあった。そしてもう1人、彼の選択に影響を与えた人物がいた。往年の名俳優である故・大杉漣だった。
大杉は徳島ヴォルティスの熱狂的なファンとして有名だった。実際にスタジアムへ足を運んで試合を見る姿はSNSでも大きな話題になった。
「あんな有名な俳優の方が沖縄キャンプにも足を運んでくれたり、自分たちを応援してくれることが驚きだったし、嬉しかった。それを知ってから大杉さんが出ている映画やドラマを見るようになったんです。そうしたら大杉さんの演技に引き込まれる自分がいて。『もし自分が俳優になったら大杉漣さんみたいになりたい』と思うようになりました」
大杉とは接点こそなかったが、次のステージに向けての自分のビジョンがおぼろげながら見えてくるようになった。そして、自分自身に苦しんでいた2015年3月、青山はオフに仙台へ戻って伊集院と篠に相談をした。
「そうか、いいんじゃないか。きっかけは作ってあげるけど、あとは全てお前次第だぞ」と伊集院に言われると、篠からは「俳優はいい道だと思う。でもね、20代後半での転身は周りの印象はよくないかもしれないし、大変な道ではあるけども」と釘も刺された。
大御所2人からの言葉は大きかった。季節は6月。これから訪れる夏の移籍ウィンドー(注1)での移籍も一瞬考えたし、実際にJ2の複数クラブからの正式オファーはあった。しかし、環境を変えても同じと判断した青山はここでスパイクを脱ぐ決意を固め、代理人に「もうクラブを探さなくても大丈夫です」と伝えた。
(注1)Jリーグにおける年2回の移籍期間のこと。
「代理人の方からは『まだ早い、まだやれるから考え直してくれないか』と言われたのですが、俳優の道に進む覚悟は決まっていた」
2015年7月に青山はクラブとの双方合意に基づく契約解除をし、現役引退を正式発表した。「ならなければならない」とまで思い、夢を見続けてきたプロサッカー選手。彼にとって突然のアクシデントによりその道から離れることとなった。
引退して俳優の道へ。現役引退から3ヶ月後の10月に所属する芸能事務所が決まり、年が明けた1月には人気映画・『新宿スワンⅡ』への出演が決まった。順調なスタートを切ったと思われたが、そこに待ち受けていたのは厳しい現実だった――。
後編はこちらからご覧ください。
青山 隼(あおやま じゅん)
1988年1月3日生まれ。宮城県仙台市出身の元プロサッカー選手。ポジションはMF。14歳以下の年代から日本代表に名を連ね、不動のボランチとして活躍した。
Jリーグでは正確なロングパスと、恵まれたフィジカルを生かしたタイトな守備、攻撃参加からのミドルシュートを武器に、名古屋グランパス、セレッソ大阪、徳島ヴォルティス、浦和レッズなどのクラブを渡り歩いた。2015年に現役引退を発表。
引退後はジャパン・ミュージックエンターテインメント所属の俳優として活躍している。