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掲載日:2023.4.10
最終更新日:2023.10.17
【後編】「今」を必死で生きているか。中途半端と言われた日々に勝ち、ファジアーノ岡山のレジェンド、そして課題解決のプロとなった竹田忠嗣の人生選択
かつて「ファジアーノ岡山のレジェンド」としてクラブをJFLからJ2リーグへと導き、9年間J2リーグでプレーした竹田忠嗣。2018年には当時J2リーグだったFC岐阜へ完全移籍。J3リーグ降格という憂き目に遭うも4年間を岐阜でプレーし、17年間に渡る現役生活に幕を下ろした。 竹田は人気アイドルグループ「Kis-My-Ft2」の大ファンとして知られるなどユニークなキャラクターとしても親しまれた一方で、競技と学業という二足の草鞋を履き、文武両道に取り組み続けた。競技引退後はコンサルティング会社に勤めており、その才を発揮させている。 彼は何を考え、どのような人生選択を行なってきたのか。その真相に迫った。
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INTERVIEWEE
竹田忠嗣(株式会社船井総合研究所 シニアコンサルタント)
interviewer / writer : Takahito Ando
しがみつくか、都落ちか、再出発か

前編はこちらからご覧ください。

 

「ファジアーノ岡山というクラブがお前のことを欲しいと言っているぞ」

 

プロ4年目の2008年の夏に強化部からこう告げられた。ファジアーノは当時リザーブズと同じJFLに所属していたが、Jリーグ入りを掲げて本格強化に乗り出そうとしている時期だった。守備のテコ入れの一環としてCBを探している時に、JFLで対戦をしたジェフリザーブズで高い対人能力とロングキックの質を見せていた竹田に白羽の矢が立った形だった。

 

「正直、迷いました。ジェフのトップチームでまだ1試合も出ていなくて、デビューすることを目標にやっていたのに、ここで完全にJFLのチームに移籍をしてしまったら、もう2度とJリーグでプレーするチャンスをなくしてしまうんじゃないかと思いました」

 

大学では同級生たちが次々と一流企業に就職を決めていき、残りの大学生活を謳歌していた。一方で自分は『都落ち』を選ぶか選ばないかの瀬戸際にいる。

 

さらにこの時の竹田はある人物からこうアドバイスを受けていた。

 

「もうここでジェフをやめて大学1本にして、慶應義塾大ソッカー部(注1)に入って、関東大学リーグでプレーして、もう一度プロを一緒に目指さないか?」

 

この言葉の主は、竹田の1学年上の中町公祐だった。中町は竹田と同じように群馬県トップレベルの進学校である高崎高校から湘南ベルマーレに加入をする一方で、慶応義塾大に通っていた。ベルマーレでは4シーズンプレー。3年目までは出番をコンスタントに得ていたが、4年目の2017年シーズに出番が激減したことで、ちょうどこの年にベルマーレを退団して慶應義塾大ソッカー部に入部し、関東大学サッカーリーグ2部でプレーし、大学サッカー経由でもう一度プロを目指そうとしていた。

 

ジェフという看板から離れるか、それともしがみつくか。離れるにしても、中町のようにソッカー部で1から出直すか、思い切って岡山に行くのか。決して簡単な決断ではなかった。

 

(注1)戦後、「蹴」という文字が「当用漢字表」から外れたため、新聞で「蹴球」の代わりに「サッカー」が使われるようになったが、慶應義塾では今でも「ソッカー部」と称している。

自問自答の末に辿り着いた、純粋な「なりたかった自分」

だが、「本当に自分は将来何になりたいのか」というシンプルな問いを自分自身にぶつけていくうちに、自分が求めている道が見えてきた。

 

「小学校の時からプロサッカー選手を夢見て、全力でサッカーをやってきた自分に気づけたんです。正直、それまではプライドが邪魔をしたり、反骨心が強すぎたりして、純粋な自分の気持ちに気づけていなかった。一般企業に行って、いい給料をもらえることもできるけど、やっぱり俺はプロサッカー選手としての人生を歩んでいきたいと純粋に思った。そう考えたら、ファジアーノからのオファーがプロサッカー選手として最後のチャンスかもしれないと思えたんです」

 

移籍へ気持ちが傾く中で、さらに決定打となったのが、ファジアーノが本気で自分を欲しがっていることだった。

 

「当時、大学4年生を迎えていて、残りの単位取得をするためには、関東を離れると厳しくなるという現状がありました。それを素直に伝えると、ファジアーノは『休みの日の飛行機代を出すし、練習参加と通学をうまく両立できるように全面協力をする』とまで言ってくれたのです。その熱意に心を打たれましたし、ここで関東を出て、環境を変えてチャレンジしようと思いました」

 

2008年7月にファジアーノへ完全移籍をすると、週末はJFLの試合に出場をし、オフの月曜日は東京に戻って大学に通うという日々を半年過ごした。そして2009年、全単位を取得してストレートでの慶應義塾大卒業を果たし、ファジアーノでも悲願のJ2リーグ昇格を手にした。

 

チャンスは準備を怠らなかった者がつかみ取れる。まさに竹田はサッカーと勉強で初志貫徹を続けた結果、ついに彼は追い続けていた『二兎』をその手でガッチリと掴み取ったのであった。

強すぎたセカンドキャリアへの意識が、プロとしての視野を狭めていた

そして迎えた2010年。竹田はプロ5年目にして念願のJリーグデビューを飾ると、チームで不動のCBとしてJ2リーグ37試合出場を果たした。

 

このシーズンは竹田にとって結果が出ただけではなく、これまでの価値観に変化をもたらす重要な1年となった。卒業をしたことで大学の授業もなくなり、自由な時間が増えた時、彼はある重要なことに気づいたのだった。

 

「練習以外の時間の使い方に対して、高校時代から分単位で動き続けてきたので、岡山に来ていきなり大量の空き時間が生まれたのには正直焦りました。その中で他の選手はパチンコに行ったり、競艇に行ったりするのですが、『俺、本を読むんで帰ります』とか誘いを断って、『何かしなくちゃ』と思っていました」

 

その時に当時のGMで、竹田をファジアーノに引き入れてくれた張本人である池上三六から、「お前はもっと仲間との時間を作らないとダメだ。パチンコや競艇はダメだが、ご飯に一緒に行ったりしてもっと仲間を作れ。サッカーはチームプレーだし、信頼されてなんぼだぞ」と言われ、ハッとさせられた。

 

「サッカーだけではなく、もっと違う世界を見ておかないといけないと、広げておかないといけないと強く思っていました。でもそれが結果としてサッカーに人生の軸足を完全に置ききれていなかったことに気づいたんです。両立しているつもりが、プロ意識という面では両立どころか足りていなかった。だからジェフでは試合に出られなかったのかもしれないと思ったんです。プロサッカーの世界でのしあがれない人間が、その別の世界に行ってものしあがれるわけがないということに気付かされたんです」

 

もっとサッカーに没頭しないといけない。もっとサッカーに時間を注ぎ込まないといけない。そうしないと周りは誰も信用してくれないし、そんな状態で試合に出ても活躍できるわけがない。もし試合に出られなくなったら、小さい頃からずっと夢見ていて、叶うことができたプロサッカー選手のキャリアがすぐ終わってしまう。彼の心の中に様々な思いが込み上げてきた。

 

「若い時にセカンドキャリアへの意識が強すぎたんじゃないかと思うんです。だからこそ、ファジアーノ2年目からはセカンドキャリアのことは一旦頭の中から外して、サッカーに専念することを決めました」

有限であるプロ人生に全力で取り組む

毎日の時間の使い方は、身体のケアや自主トレーニングをしながら、次の対戦相手の映像分析をしたり、自分の試合を見返したり、J1リーグか海外サッカーを見ることで、自分のフットボールインテリジェンスを高めることだった。そしてそこに仲間たちとの食事やカフェでの語らいを入れる。これだけで時間はあっという間にすぎた。

 

「同期でスーパーだった選手がもう引退している現実などを見て、改めてプロサッカー選手でいられる時間は有限だなと。だからこそ、全力でやりたかった」

 

1年、また1年とファジアーノでのキャリアが積み重なっていく。気づけば彼はファジアーノで9シーズン半を過ごし、キャプテンを任されるまでのクラブレジェンドになっていた。

 

2018年には当時J2リーグだったFC岐阜に完全移籍。岐阜でもCBとして不動のレギュラーとなり、キャプテンも任されるようになった。しかし、チームは在籍3年目の2020年にJ3降格の憂き目に合い、翌2021年に1年でのJ2復帰を果たせぬまま、竹田はこの年で17年のプロキャリアに別れを告げ、スパイクを脱ぐこととなった。

そもそも自分は何ができて、どんな知識を持っているのか

引退する年に何を考え、どう今のキャリアにつなげていったのかはのちに触れるが、その前に彼のこれまでの人生において重要なポイントを伝えたい。

 

ファジアーノに来てから「セカンドキャリアのことは一旦頭の中から外した」としているが、彼はセカンドキャリアに対して全く何もやっていなかったわけではなかった。彼は何をすべきか考えながら動くのではなく、「今の社会の状況や仕組みを見逃さないようにするために」と毎朝、練習前に喫茶店に通ってモーニングを食べながら、1時間だけ日経新聞を読んでいたのだった。ファジアーノ時代も岐阜時代も、それが朝のルーティーンとして確立されていた。

 

「周りもよく『セカンドキャリアを準備しておきましょう』と言いますが、じゃあ、何を準備していいのかわかっている選手は少ないと思います。そもそも自分が何ができて、何ができないのか、ちゃんとした知識があるのかないのか。世間や社会を知らない状態で、セカンドキャリアを見つけることは至難の技だと思うのです。いかに現役時代からアンテナを張って、情報を取り入れたり、その情報に対して自分で考えたりする習慣ができているかが重要だと思う」

 

選手会の監事を率先してやったのも、この考えによるものだった。18歳の頃から参加をしていた総会で副会長に立候補し、選手会の幹部として意見を言ったり、他の世界の人たちとの連携で新たな視点を学んでいった。

重要なのはセカンドキャリアに対応する土台を築いておくこと

セカンドキャリアを探すのではなく、一人の社会人として知見・見聞を広める。これは最も重要なことだ。いくら形だけ急いで作っても、中身が伴っていなければ意味がないし、仮にその形に乗り移ることができても、その形は脆く、どこかで崩壊をしてしまう。

 

重要なのはセカンドキャリアをどうするかではなく、セカンドキャリアに対応できる知見・見聞を広げておくことである。竹田は学生や若いうちからセカンドキャリアを意識した具体的な行動をとってきたことで、プロ5年目の段階でその土台がきちんと出来ていた。

 

その揺るぎない土台があったからこそ、一度両立の日々から離れて、サッカーに没頭できる時間と環境を最大限に活かすことができた。それぞれは決して分断されたものではなく、1つの芯でつながっている。竹田にとってその芯とは何かと問われたら、それは時間の有効活用と自己分析による柔軟な将来ヴィジョンの構築だ。

学生の時は両方こなすことが重要だった。ファジアーノではどちらか一方に専念することが重要だった。そして、引退すると決めた時、その後はどうだったのか。

 

「ベテランになってくるといろんな人との交流が増えてくるじゃないですか。そこでいろんな業種の方とお会いする時にスムーズに話ができるのは、新聞のおかげなんです。それによってその人たちから新たな知識、見聞を得ることができた。その中でコンサルタントをしている人と出会ったんです。最初は『コンサルタントって何だろう?』と思っていたのですが、話を聞くと企業などの課題を解決や、経営の構築をサポートしないといけない職業で、クライアントよりも何でも知っていないといけない。実際にその人はなんでも知っているんです。そこに凄さを感じたし、課題を解決するということに大きな魅力を感じたんです」

 

引退を決めた年は、前述したようにFC岐阜が低迷して苦しんでいた時期だった。組織としてもチームとしてもうまくいかない。「なぜここまで投資をしているのに、周りも応援してくれるのに、こんなにも結果につながらないのか」と不思議に思う自分がいた。

 

「キャプテンとしてこれを解決するためには、コンサルタントみたいな思考力は必要だなと感じたんです。プランを立てて、それを選手たちに伝えて、実行する。サッカーで自分が置かれた状況とコンサルティングがつながって、そこからコンサルの本を読んで勉強するようになったのです。すると良いコンサルは端的に要点だけコンパクトに伝えるとあって、実際にファジアーノの経営陣もそれが物凄くうまかったことに気づいたんです。だらだら喋らない。これはサッカーも一緒だなと思って、どんどん取り入れていくうちに、コンサルタントになりたいという気持ちが芽生えたんです」

キャリアプランから導き出された自身の引き際と新天地

この時、竹田年齢は35歳。このまま続けるか、引退して見つかりかけている次の道に進むのか。

人生の逆算をしてみたら、50歳ではここにいたい、じゃあ40歳にはここにいないといけないと考えたときに、引き際を遅らせることはその後の人生プランも大きくずれてしまうと思った。40歳まであと5年しかないと考えたときに選択肢として選手ではなかった。次のステージはコンサルタントになり、そこから1人前になっていくことがベストだと思った」

 

決断は早かった。引退を決めると、その後の道を具体的に模索し始めた。スポーツ系のコンサルタントをやっている人と何人も顔を合わせ、転職サイトなどにも登録して企業を探して、実際に面接も受けた。だが、「キャリアはユニークで面白いけど、新卒扱いだよね?その年齢で家族もいるとなると、それ相応の年収も必要になるよね。うちは正直出せないと思う」とリアルな現状を突きつけられたこともあった。

 

企業側もいくら元Jリーガーで、J2リーグで280何試合、J3を含めてプロ17年で300試合出ていようが、その業界が未経験であれば新卒扱いと変わらない。もし準備ができていなかった選手であれば、この壁を前にして苦しんだかもしれないが、竹田は「わかっていたこと」と動きを止めなかった。

 

そこで巡り合ったのが船井総合研究所だった。船井総合研究所は2019年にスポーツ推進部が立ち上がったタイミングであった。「船井総合研究所は若手が伸びるという話を聞いて、調べていくうちに『絶対にここで勤めたい』と思ったんです」

 

熱意が伝わり、内定を手にすることができた。入社して1年が経とうとしている2023年現在、彼は新しい学びと発見の連続の日々を送っている。

 

「取引のある業種が非常に幅広くて、全国にクライアントが6,000社ほどあるんです。地域を巻き込んでみんなで成長をしていくグレートカンパニー構想を掲げているのですが、それはそのままJクラブの存在意義にも当てはまる。プロスポーツがハブになって何かできるのではないかと考えて立ち上がった部署に配属されています。『プロスポーツをよくしたい』とコンサルタントを志した通りのことを今、仕事としてやらせてもらっています」

 

どの市場を開拓すべきか、プロスポーツの経営者と勉強会を開いて積極的な情報交換を促すなど、点と点を結び付けたり、プロスポーツの売り上げ向上にコミットしたりと、その役割は多岐に渡っている。

 

実は彼は慶應義塾大学のAO入試の際に、どのような学問を確立していきたいかを論文にして提出する試験を受けていた。この時、彼は『日本がワールドカップで優勝するためにはどうしたらいいか』というテーマで、地域創生や集客面でのハードの強化、身体運動解析で練習もデジタル化、そのためには自分自身がこういうキャリアを積んで、引退後は指導者ではなく、マネージメント面に関わって、日本サッカーをよくしていきたいという人生プランを書いたという。

 

「たまたまかもしれませんが、今の人生はそうなっていますね(笑)」

常に共通しているのは「今を必死に生きる」こと

最後に自分のサッカー人生、歩んできた道のりについて振り返ってもらった。

 

「やりたいことを全力でやることが大事だと思います。自分の中で引退した後はビジネスの世界に行きたいとずっと思って、サッカーと勉強の両立を全力でやりました。でも、ずっとそれではダメで、途中でサッカーに全力を尽くしたからこそ、ファジアーノ、FC岐阜でのキャリアを積むことができた。

 

次はこれまでの経験と知識に新しい学びをプラスして、コンサルタントとして全力を尽くすだけ。どの時も共通しているのは『今を必死に生きる』なんです。先のことをいくら考えても、その通りにはいかない。プロ生活だって僕は結局J1で1分たりともプレーすることができなかった。『何でこんなうまくいかないことばかりなんだろう』ということの連続だった。

 

大事なのは今ここで100%やれているか。その積み重ねが未来につながっていくんです。僕はいつの時も方向性は違ってもとことんやり続けてきたから、今があると思っています。

竹田忠嗣(たけだ ただし)

1986年生まれ。マレーシア出身の元プロサッカー選手。ポジションはDF、MF。
ジェフユナイテッド市原・千葉のジュニアユース、ユースを経て2005年にトップチームへ昇格。以降はセカンドチームであるジェフリザーブズをはじめ、ファジアーノ岡山、FC岐阜でプレー。
2022年4月1日、17年間に及ぶ現役生活に別れを告げた。
ジェフのトップチーム昇格と同時に慶応義塾大学総合政策学部に進学しており、学業にも力を入れていた。
現在は株式会社船井総合研究所にてコンサルタントとして活躍している。

CREDIT
interviewer / writer : Takahito Ando
editor : Takushi Yanagawa
director : Yuya Karube
SPECIAL THANKS
木村正明氏(Jリーグ前理事)
池上三六氏(元ファジアーノ岡山ゼネラルマネージャー)
イビチャ・オシム氏(元サッカー日本代表監督)
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