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2018年4月、ちょうど大分トリニータのレンタル移籍からアビスパに復帰をした年に、彼はMBA取得に向けてグロービス経営大学院に入学をした。
MBAは全てのカリキュラムをフルで受講すれば2年で取得できる。しかし、そのためには2週間に一度、3時間の授業を受け、かつ1学期(4学期制)で3教科まで選択して、2年間で合計24教科を取得しないといけない。つまり1つも落とせないというかなりハードなものであり、サッカー選手が2年で取得するのは絶望的だった。
そのため、彼はサッカーに支障が出ないようにMBA単科制度という、先に自分が選択した教科の単位だけ取れるコースで入学し、自分が興味ある教科から学ぶことにした。
「単科制は2年間在籍できて、入学金は払わずに単位だけ取れるコース。例えばビジネスパーソンで会計の仕事をやっていて、『グロービスのアカウンティングという授業だけ受けたいんです』という人は入学をしないで、その教科だけ取得することができる制度があったので、それで僕はまず2年間で8教科をピックアップして学び、残りの16教科を改めて正式に入学金を払って入学して2年間で取得をするというプランにしました」
きちんと取得までの道のりも考えて計画的に人生設計をした彼は、結果として4年間ですべての教科を取得し、MBAを手にすることになる。この4年間は彼にとって積極的に学ぶことの喜びを感じる充実した期間であった。
ここでプロサッカー選手とMBA取得の両立方法の詳細を伝えたい。彼はプロサッカー選手の自由時間を有効に活用した。午前中に練習が終わると、フリーとなる午後の時間に勉強を詰め込むのではなく、時間をきっちりと決めて勉強に励んでいた。
「MBAの授業は2週間に一度なのですが、そこに向けての予習が絶対に必要で、グループワークの時に発表する図などの資料やレジュメを作成しないといけないし、復習もきちんとしないと授業についていけなくなる。それができないと同じグループの人たちにかなり迷惑をかけてしまう。毎日勉強をしないと追いつかないからこそ、毎日1時間半から2時間は必ず勉強をする習慣を取り入れました」
試合の前泊のホテルでも、試合後のホテルでも勉強は欠かさなかった。勉強をすればするほど、知識が深まり、自分の知的探究心が満たされていく。それどころかいろんな分野やメカニズムの存在を知っていくにつれて、知的探究心はさらに広がっていき、渇望が生まれる。
「受講生にはビジネスパーソンが多くて、僕と同じように課題感を持っている人や、経営者をやっている人に混じって学んでいました。座学でただ学ぶだけではなく、いろいろな人の考え方やバックボーンも知ることができて、本当に楽しい気持ちでした。
それにそういう人たちは僕が無知からくる的外れなことを言ったとしても、『プロスポーツ選手ならではの発想だね』とか、『興味深い視点だね』とか前向きに捉えて、きちんと意見を共有してくれるなど他人を尊重するマインドを持っていたので、人間的にも学び、成長することができました」
それまでの彼は勉強すること、試験を受けることに対して、「点数をつけられたり、順位をつけられたり、100点満点から減点方式のようなイメージを持っていた」と言うが、「ここでの学びは加点方式のように感じたし、そうした学びが人を成長させると感じた」と価値観にも大きく変化をもたらした。さらに勉強が充実していくに連れて、サッカー面でもプラスになっていく実感を得た。
「MBAの取得は課題感の解消だけではなく、サッカー面でもプラスになると確信していました。考え方として物事を広く知っている方が、いいところを吸収する力が高くなる。チームメイトや監督、スタッフと考え方が違うこともある中で、お互いの良さを見つけて「活かし、活かされる」関係性を作れるようになった。
若い時は『この人はない。自分がやればいい』と切り捨てていたところから歩み寄れるようになったんです。
例えば僕はパスを出す方なので、味方の特徴や短所、動き方や性格などを把握した上でパスをするようになった。別に劇的にアシストが増えたわけではないのですが、『今日はなんか合わないな』と思った時に、『この状況にどうやって味方とアジャストできるようになるか』が具体的に考えられるようになりました」
アビスパでは2018年途中からキャプテンに就任。心身ともにチームの柱となった2018年シーズンはキャリアハイとなるJ2リーグ41試合に出場して6ゴールをマーク。翌2019年もキャプテンとしてリーグ38試合に出場をした。
しかし、プロの世界は厳しいもの。2020年シーズンには徐々に出番を失うと、シーズン終了後にアビスパから契約満了を告げられた。
「正直、アビスパで引退をしようと考えていたので、かなりショックでした。でも、契約満了が現実で、その先のことを考えないといけない。年齢も31歳になろうとしていて、これからを考えた時に自分が経験したことがない場所に行くのも大事だと考えて、海外に挑もうと考えたんです」
この考えに大きな影響を与えたのが、グロービズ経営大学院で一緒だった仲間や講師たちの存在だった。
「彼らの話を聞くと、『海外旅行ではなく、海外で暮らすというのが一番、人を変える』と異口同音でした。暮らしたり、働いたりすることが一番、価値観を変えると聞いて、僕も行きたいと考えるようになりました」
しかし、2021年はちょうどコロナ禍だった影響もあり、海外移籍のハードルは高く、オファーをくれたJ3の藤枝MYFCに移籍をした。藤枝のためにプレーする一方で、彼の知的探究心はさらに高まってきており、「次は必ず海外に出て知見を広げたい」という想いは消えなかった。
そして迎えた、2年目の2022年。彼はチームの主軸としてリーグ33試合にスタメン出場し、チームのJ2昇格に大きく貢献をした。当然、契約更新の話もあった。しかし、彼の中ではJリーグに別れを告げ、海外クラブに移籍をして引退をするというビジョンが描かれていた。
この年に計画通りMBAを取得し、あとはそこで得た知識に海外での生活の経験をプラスさせ、より自分のキャパシティーを増やしたい。覚悟は決まっていた。
「もう一度J2に戻ってプレーするより、自分の人生のための経験を選びました。ただ、僕の歳での海外移籍ですし、目的はサッカーでステップアップをするというより、自分の知見を広げるというスタンスでしたので、ドイツやオランダのような西ヨーロッパとかだけではなく、東南アジア、東ヨーロッパも視野に入れて探しました」
2023年、東ヨーロッパの『バルト三国』の1つであるリトアニアのマリヤンポレという街にあるFKスードゥヴァに移籍。街自体に日本人が鈴木1人という状況で、不便な点もたくさんあったが、知的探究心が満たされる毎日が楽しくて仕方がなかった。
「サッカーのレベルは正直低いのですが、サッカー観が全然違って、日本の当たり前が全然通用しない。それは日常生活でも一緒で、あまりの違いに驚きましたし、それがとても刺激的でした。英語でのコミュニケーションができたことも僕にとっては大きなことでした」
だが、日本には妻と2人の幼い娘を残しており、家族と暮らすことの大切さも同時に痛感していた。
「最初は家族全員で暮らせる海外クラブや、日本と行き来しやすい東アジアの国のクラブを探していたのですが見つからなかった。それならば帰国して、サッカー選手としても一区切りつけようと」
自分の置かれた状況を客観的に見つめ直した結果、海外挑戦を1年で終え、家族のもとに帰ると共に静かにスパイクを脱いだ。
そこから彼はセカンドキャリアを探すことをスタートさせた。
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鈴木惇(すずき じゅん)
福岡県出身の元プロサッカー選手。ポジションはMF。
2008年にアビスパ福岡でキャリアをスタートさせ、2013年に東京ヴェルディへ移籍。2015年には福岡へ復帰し、自己最多の9ゴールを記録するなど福岡のJ1昇格に貢献した。その後は大分トリニータ、藤枝MYFCへの移籍を経験し、2023年にリトアニア1部のFKスードゥヴァへ移籍した。
2024年に現役引退を表明。
現在はプロバスケットチームの茨城ロボッツへと活躍の場を移し、ビジネスパートナー事業部での業務に従事している。