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インドネシアのクラブを離れた時、赤星は33歳になっており、自分の現役がもう長くないことを悟っていた。これまではいろいろな国からオファーがあったが、33歳になる自分にいい条件のオファーはなかなか来なかった。
一度帰国したが、やはり海外でのプレーを求め、彼はクラブが決まっていない状態で家族と共にオランダに渡った。「移籍ではなく、移住」と、もう日本には戻ってこないつもりだった。オランダで地元の社会人クラブでプレーをしながら、所属先のプロクラブを探す予定だった。しかし、オランダに移住してから数週間後に新型コロナウィルス感染症が世界中に急拡大をした。
「全部がすぐに止まってしまい、どうしようもなかった」
さらに追い討ちをかけるように父親が大病を患い、日本にいる父を心配しながらも、自分の身の振り方が定まらない苦しい状況が続いた。それでも貯金を切り崩しながらオランダでの生活を続けたが、1年が経過したところで父親の余命が3ヶ月と宣告された。
高校時代から親元を離れ、好きなサッカーを自由にさせてもらってきたからこそ、最後はそばにいてあげたい。この想いで定住するはずだったオランダを離れ、富士市に帰ってきたのだった。この時点で彼は引退を決意し、2021年4月に正式に発表した。
だが、この発表直後に赤星に連絡を入れたのが岳南Fモスペリオだった。
「もう少し選手として地元に貢献してくれないか」
この言葉に心が揺さぶられた。JリーグでもJFLでもない、静岡県リーグのチームだが、父親に本当の意味で最後になるであろう、自分がサッカーをしている姿を見てもらいたい。そう考えた赤星は「わかりました。地元なので営業面でも頑張りますよ」と告げると、クラブの職員として営業なども行う選手兼社員としてのオファーを受け入れた。
この直後に父親は他界し、サッカーをする姿は見せることができなかった。しかし彼は一度決めた覚悟を貫いた。当時、モスペリオは県1部リーグで2連覇をするなど、実力あるチームだったが、1部昇格から13年間も東海社会人リーグ2部へ昇格できないでいた。
「この足踏みから早く脱却しないといけないと思いましたし、富士市は静岡県で3番目に人口が多い街。静岡はJクラブやラグビー、バスケットクラブが多いですが、富士市・富士宮市にはプロクラブが1つもないことを考えても、ポテンシャルは物凄くある地域なんです」
ジュビロ磐田がある磐田市、藤枝MYFCがある藤枝市、近隣のアスルクラロ沼津がある沼津市よりも人口が多く、その数は30万人後半。しかも首都圏からも近い。
地理的ポテンシャルはあるが、一方でこれだけプロスポーツが活発な静岡県で未だにプロクラブがないのは、地元の人たちの関心がスポーツに向いていないことも要因である。首都圏が近いことで、首都圏で就職をして若者が戻ってこなかったりと、『Iターン現象』が起こりやすかった。
さらに赤星自身のように地元の有望な小学生が中学から中部地域(静岡市、藤枝市など)でプレーし、そのまま中部地域や西部地域(浜松市、磐田市など)の高校、Jクラブユースに進むことが多く(赤星以外では川口能活、小林大悟、小川大貴、木本恭生、石毛秀樹など)、何より「運動部が盛んな大学がない」と地元に選手として戻ってくる土壌がそもそもなかった。
「モスペリオを発展させると決めた以上、この流れや土壌を変えていきたい。そのためにはJリーグに上がることと、地域の人たちに認知して応援してもらえるようなチームにならないといけない」
そう意気込んで赤星は現役復帰を果たし、得意のコミュニケーション能力を駆使して営業をしながら全力疾走をした。1年目は県1部リーグで2年ぶり4度目の優勝を果たすも、東海リーグ2部に昇格することができなかった。だが、2年目で念願の東海2部昇格を果たすと、昨年は昇格初年度で優勝をして、ついに今年から東海1部昇格を手にした。
そして赤星の昨年8月にこのシーズンをもっての現役引退と2024年からクラブの代表取締役に就任することが発表された。
「クラブとしての土台がない状態で上へ上へと急ぐのは本当に危険。スポンサーをもっと増やして、クラブコンセプトを固めるなどをして、きちんと基盤を作っていかないといけない。変にスピード感だけ早めてやってしまうと逆にリスクが大きくなる。クラブでプレーし働く選手から、経営する立場に変わったからこそ、これからよりしっかりとした土台を構築して行きたいと思っています」
周りに「Jリーグ入りを目指します」、「○年後にJリーグに入り、○年後にJ1に昇格をします」と言えば、聞こえはいいし、体裁も保てるだろう。しかし、それを目指したり、口にするクラブは日本全国に数多ある。それだけJリーグに入ることは競争が多いが、実際はかなりの狭き門であり、ハードなチャレンジだ。Jリーグ入りまで時間がかかり、チームのヴィジョンが『絵に描いた餅』で終わる可能性がこれから先どんどん大きくなっていく。
そうこうしていくうちにクラブとしての求心力、発信力がなくなり、クラブとして先細りになってしまう。赤星はそれを十分に理解していた。
「今、10、20年後の話をするのは違う。雲を掴む話をしても、その場しのぎになるだけで、常に数ヶ月後、2、3年後の見える景色の話をしないといけない。これは僕がサッカー人生を通じて学んだこと。
先を見過ぎずに、見えるものからやりがいや覚悟を決めて、それを徐々に明確な形にしていく。そこに集中してやらないと、経営者という立場になってもうまくいかない要因になってしまうと思います」
単純にJを目指す時代は終わった。それを言っておけば存在意義になるという時代はもう終わったのだ。クラブのアイデンティティ、コンセプトが明確にあって、何を発信できるか、何を創出できるかが問われてくる。その中で赤星はどう動くのか。
「ただチームを強くするだけではなく、今までの海外経験とつながりを生かして、世界に発信をしたり、交流のハブとなったりするようなクラブにしたいんです。もちろん富士市・富士宮市という地元のコミュニティーも大事です。いろんな国を渡り歩いてきましたが、どの国も地元の人は地元のクラブを例え4部だろうが、5部だろうが熱心に応援するんです。
やっぱり地元の街にクラブがあって、街にはそのクラブのフラッグがあって、週末には自転車やすぐに行ける場所で試合がある。友達、親子、祖父母と孫などの家族、取引先や会社の同僚などと一緒に練習や試合を観に行って、1つのコミュニティーとして交流や商談が成立する。
僕はまず普及活動もそうだし、地域に機会だけではなく、選手という人材を送り込んで、繋がりを作ることを実践していく。地元という小さなコミュニティーを大切にしながら、世界も見たいし、見せたい。地域密着とグローバリゼーションを同時にやることが、僕のコンセプトになります」
もちろん簡単なことではない。実際に昨シーズンは経営を学び、来季の編成や契約交渉なども経験をし、「こんなにキツいのかと痛感した」と日々経験と勉強の日々だ。だが、彼なら魅力的なクラブを作り上げてくれるのではないかという期待を抱かずにはいられない。
今、彼はこの仕事に相当な誇りと覚悟を持って臨んでいることを理解した上で、最後に敢えて「また海外に住みたいとは思わないのですか?」と聞いてみると、彼は笑顔でこう答えた。
「そりゃずっとオランダにいたかったですよ(笑)。当初は帰国するつもりはありませんでしたから。でもいろんな『人生のあや』があった中で、常に責任とやりがいを見出せているからこそ、期待を感じながら今を必死に頑張ることしか考えていませんよ。人生、何があるかわからないこそ楽しいし、その瞬間瞬間の経験、決断に価値があるんです」
赤星貴文(あかほし たかふみ)
静岡県富士市出身の元プロサッカー選手。ポジションはMF。
中学時代から年代別の代表に名を連ね、2005年に浦和レッドダイヤモンズに入団。加入1年目から公式戦デビューを果たす。その後は水戸ホーリーホックやモンテディオ山形、ツエーゲン金沢への移籍を経験。2010年より海外クラブを渡り歩き、2021年4月に引退を発表。現役時代は卓越した足元の技術をベースに広い視野からゲームを作って行く冷静さと躍動感を兼ね揃えたMFとして活躍した。
帰国した2021年5月に引退を撤回、地元富士市で活動する静岡県社会人サッカーリーグ1部の社会人チーム岳南Fモスペリオに選手兼営業として加入。2023年10月、再び現役引退を発表し、2024年より同クラブの代表取締役に就任している。