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掲載日:2026.8.21
最終更新日:2026.8.21
【中編】人脈に頼らずとも、縁が導く。北京五輪落選が転期となった青山直晃は企業で研鑽を積み、全国へ
プロ生活16年。J1リーグで11年間、プロの第一線で走り抜いてきた青山直晃は今、岐阜で中学時代に所属したサッカークラブ、岐阜VAMOSの代表を務めている。 182cmで屈強なフィジカルを誇り、圧倒的な空中戦の強さと対人能力を持っていた青山は、前橋育英高で細貝萌(現・ザスパ群馬代表取締役社長)と2枚看板を組み、高校卒業と同時に清水エスパルスに加入。2007年には本田圭佑、長友佑都らと共に北京五輪のアジア予選を戦い、五輪出場権獲得に貢献した。だが、2008年の本戦前に調子を崩してメンバーから落選。2015年から4年間タイ・プレミアリーグでプレーしたのち、2020年にスパイクを脱いだ。 そこからの足取りはメディアにほとんど取り上げられていない。共通の知人を通じて岐阜VAMOSの代表をしていることを知り、16年ぶりに再会した彼に話を聞くと、紆余曲折のセカンドキャリアの歩みが見えてきた。
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INTERVIEWEE
青山直晃(岐阜VAMOS代表)
interviewer / writer:Takahito Ando
これまでのキャリアに頼らないセカンドキャリアへ

前編はこちらからご覧ください。

 

2020年シーズン終了後、鹿児島ユナイテッドFCから契約満了を告げられ、青山直晃は静かにスパイクを脱いだ。

 

「鹿児島をJ2に昇格できなかった時点で、『ここまでだな』と思っていました。サッカー人生を振り返って思ったのは、北京五輪に行けなかったこと、A代表に入れなかったことは悔しかったのですが、それも僕の人生。本田圭佑や岡ちゃん(岡崎慎司)、長友佑都(現・FC東京)、吉田麻也(現・LAギャラクシー)は北京五輪から一気にA代表の主軸になって、W杯を何度も経験してヨーロッパでも活躍をしていった。北京五輪が1つの分かれ道でしたが、キャリア終盤のシーズンは自分自身にフォーカスを当てサッカーと真剣に向き合うことができたので、満足とは言えませんが、いいサッカー人生だったと思っています」

 

紆余曲折のプロ生活16年を経て、次なる人生のスタートを切ることになるが、そこで青山はこれまでのキャリアに頼ることなく、独自の道を切り拓く決断をする。

「サッカー選手を辞めた時点でまた1からのスタートだという感覚でした。なので、引退後はサッカー選手時代に培った人脈でどうにかしようという思いは一切ありませんでした。むしろ一度すべてを断ち切って、誰かの力を借りることなく新たなスタートを切りたかったし、サッカー以外のことをやろうと決めていました」

 

これだけの長いプロキャリアを歩みながら、現役引退後の彼にまつわる情報が入ってこなかったのは、この言葉に理由があった。

 

引退を発表した時、彼のもとにはJ1クラブからフロントスタッフとしてのオファーが届いていたが、その誘いを断り、仕事探しの前にまずは拠点となる住居探しを始めた。清水エスパルス時代に結婚をして家族をもうけた彼は、これまで全ての移籍先に家族を呼んで住んでいた。キャリアを終えた鹿児島に1年住み、そのまま鹿児島か宮崎での居住を考えていた。

「通らないローン」が次のキャリアの道標に

「引退後は漠然と家を探した。『ここに住みたい』と思ってすぐに問い合わせをして内見に行きました。でも、担当営業マンに『お仕事は何をされているんですか?』と聞かれたので、『今はしていません、無職です』と言ったら、『…無職なんですね』と苦笑いされたんです(笑)。正直、貯金もあったので、『このお金があればいけるな』という甘い考えを持っていたんですよ。本当に当時の僕はサッカーしかやってこなかった世間知らずでしたね(笑)」

 

結果は住宅ローンが通るわけもなく、住みたいと思った中古物件は購入することができなかった。だが、ただでは転ばなかった。タイにいた頃から家には興味があり、中でも一番カッコイイと思っていたのが『BESSの家』のログハウスだった。「住みたい家を作る企業に就職しよう」と、そのメーカーである株式会社アールシーコアの『BESSの家』という事業を調べ、宮崎だけではなく全国展開をしていることを知った。

 

 

 

「どこの支店に応募しようかと考えた時に、最初は宮崎でスローライフも考えていたのですが、ふと地元に戻ろうと思ったんです。僕は愛知出身で、岐阜で中学時代プレーしていた。ちょうど支店の『BESS岐阜』があったので、ここだと思って人生で初の履歴書を書いて会社のサイトから応募したんです」その胸の内には、いつか岐阜VAMOSを引き継ぎたいという想いも、少しはあったのかもしれない。

 

するとここで巡り合わせがあった。ちょうど採用担当の上司が岐阜でサッカーをしていた人物で青山のことを知っていたのだった。彼は就職希望の履歴書を見ると『青山直晃』という知っている名前があり驚いたという。

この話は就職したのちに知ることになるのだが、面接を取り付けることができた青山は、このチャンスは逃すまいと、なぜこの会社を希望したのかという理由を熱くレポートにしたため、面接でもその思いをしっかりとぶつけた。

 

そして見事に就職内定を取り付けると、2021年4月から住宅の営業マンとしての人生をスタートさせた。

プライドゼロから始まった営業マンとしてのキャリア

「サッカーに集中していた日々から、営業マンとして一般企業で働くという新たな日々に集中するのみでした」

当然、社会人としてのスキルはゼロに近い。最初は営業の挨拶や電話応対など、基本中の基本を叩き込まれた。当時、右も左も分からない35歳の新人で、先輩や上司は歳下が多かった。怒られたり、呆れられたりすることもあったが、それでも青山は「充実していた」と振り返る。

「元プロサッカー選手という変なプライドは一切なかったので、毎日覚えることばかりで逆に新鮮でした。業務内容は家を売ることなんですが、家の知識をまずは叩き込まないといけない。まずはこの家の良さを知ってもらう、興味を持ってもらうために何をすべきかを学びました。BESSの家は企業方針として『楽しむ家』というコンセプトがあって、従業員もみんな個性的な人が多くて、同僚や上司からも学ぶことがあって楽しかったですね」

そして入社2年目の5月に、ついに自分自身の家も岐阜で建てることができた。発注先はもちろん勤務しているBESSの家。自分の欲しかった家を作っている会社という理由で入社しただけに、青山にとって1つの目標をここで達成することができた。

そして2023年3月、彼はBESSの家を退職する決断を下す。理由は2つあり1つは「今後も営業職として自身のキャリアを築いていくことに難しさを感じた」こと、もう1つはちょうどそのタイミングで出身チームの岐阜VAMOSから「立て直しに協力してほしい」と声がかかったことだった。

 

「岐阜に住むとなった時点で、どこかで岐阜VAMOSに携わりたいという想いがありました。僕にとって中学の3年間はすごく充実していて、一番サッカーが楽しかった時期だったんです」

 

ただ、そこからの決断と動きは実に彼らしいものだった。社会人になってからも、彼の紆余曲折の人生は続く―。

 

※本記事は2026年2月に取材した内容をもとに構成しています。

 

後編はこちらからご覧ください。

青山直晃(あおやま なおあき)

岐阜VAMOS代表/岐阜聖徳学園大学サッカー部コーチ 愛知県一宮市出身。小学生からサッカーを始め、中学時代は岐阜VAMOSでプレー。前橋育英高では細貝萌と2枚看板を組み、高校卒業と同時に清水エスパルスに加入。2007年には北京五輪アジア予選で五輪出場権獲得に貢献。横浜F・マリノス、ヴァンフォーレ甲府を経て、2015年からタイ・プレミアリーグのムアントン・ユナイテッドFCで4年間プレー。ガンバ大阪、鹿児島ユナイテッドFCを経て2020年に引退。J1リーグ通算11年を含むプロ生活16年。引退後は住宅営業、介護士として社会人キャリアを積み、2023年10月に中学時代の原点である岐阜VAMOSの代表に就任。2026年6月からは岐阜聖徳学園大学サッカー部コーチも兼任し、育成年代の指導にも携わる。

CREDIT
interviewer / writer : Takahito Ando
director / editor : Yuya Karube
assistant : Hinako Murata / Makoto Kadoya / Kenshiro Hirao
SPECIAL THANKS
温厚に見られがちな私ですが、家の中では感情の波がジェットコースターのようで。
プロサッカー選手としての情緒不安定やケガの心配、メンタルケア、10回の引っ越しや手続きなど、全部妻に任せきりでした。引退してからは転職。タイで暮らすことや岐阜VAMOS代表を引き継ぐ決断など、全てを妻に相談し、長い時間をかけて話し合ってきました。
とりあえず、一旦大きなため息をつきますが、やりたいことを理解してサポートし続けてくれている妻、20年間ありがとう。
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