青山は1986年7月18日、愛知県一宮市で生まれ育った。一宮・中日少年サッカースクール丹陽小でサッカーを始めると、当時から際立っていた恵まれたフィジカルを活かしてCBとして頭角を現した。
「中学は強いチームに行きたいと思っていたので、最初は名古屋グランパスU-15に行こうと思ったのですが、当時のグランパスにはリフティング100回の試験があると聞いて、僕はリフティングが得意ではなかったので、じゃあやめようと(笑)。リフティング試験がない岐阜VAMOSの試験を少年団のみんなで受けに行ったら、6人が受かったんです。そこから6人の親御さんが交代交代でグラウンドまで送ってくれて、みんなで楽しく通ったのを覚えています」
当時の岐阜VAMOSは東海地区では安定した力を誇っていた強豪で、青山の代も東海トップレベルの力を持っていた。彼が中学3年生の時には日本クラブユースサッカー選手権(U-15)で全国ベスト16、高円宮杯全日本ユース(U-15)選手権でベスト8と輝かしい成績を収めた。

さらにジュニアユース世代のオールスターと言われるメニコンカップに出場すると、敢闘賞を獲得。ナショナルトレセンメンバーに選ばれるなど、一気に世代注目の選手となった。
当然のように、彼のもとには強豪高校、強豪Jクラブユースからのオファーが届いた。
「日本一になりたいと思っていた」青山少年はその中で国見高校、鹿島アントラーズユースに絞ったが、転校や経済面などの理由で断念すると、特待でオファーを出してくれた前橋育英高校に進学することになった。
前橋育英高ではMF細貝萌、1学年下のMF田中亜土夢らと共にチームの中心となった。目標である日本一になることはできなかったが、高校3年時には名古屋グランパスの特別指定選手(当時は今と違い内定を前提にしていなかった)になるまで成長。複数のJ1クラブの争奪戦の末、清水エスパルスへの加入を決断した。
1年目からJ1リーグ6試合に出場して2ゴールをマークして上々のプロスタートを切ると、2年目以降は不動のレギュラーCBとして主軸となり日本代表にも初選出された。そしてプロ3年目には北京五輪を目指すU-22日本代表でも主軸となり、将来のA代表のDFリーダーとしての期待を一身に集めていた。
まさに順風満帆の日々だった。あくまで『ここまで』は―。

北京五輪イヤーとなった2008年。さらなる飛躍の1年になるはずだったこのシーズンは、彼にとって地獄の1年となり、そこから運命の歯車は徐々に噛み合わなくなっていく。
北京五輪を8月に控える中、青山はこのシーズンも開幕から清水のDFの要として君臨し続けた。
しかし、何かプレーがおかしい。持ち前の迫力満点の空中戦や1対1の守備、シュートブロックなどのフィジカルを駆使したパワーディフェンスが思うように出せない。それと同時に、当時のトレンドとして広がりつつあった後ろからのビルドアップにトライをしても、周りと噛み合わなかった。
「自分から見ても、周りから見ても、A代表は見えていた。その中で徐々に『日本代表の青山直晃』という看板が自分の中でも大きくなってきて、プレッシャーになっていったんです。特に足元の技術やビルドアップは自分が昔から苦手にしていることで、『上手に見せないといけない』としすぎた結果、自分の本来の良さ、出すべき武器を見失ってしまいました」
試合には出ているのに、自分も周りも納得できるような出来には至らない。徐々に周りから『スランプ』の4文字が囁かれるようになり、迎えた2008年7月14日。テレビで北京五輪の最終メンバー発表を見ていたが、最後まで自分の名前は呼ばれなかった。
「正直、『落ちるだろう』ということは薄々感じていたので、それが現実になったんだと…。ショックを周囲に見せないために、必死で自分を保っていました」
強制的に自分を納得させて、そこからの再起を誓うことに切り替えた。頭を丸坊主にし、気合を入れて1からのリスタートを切った。このシーズン、彼はキャリアハイとなるJ1リーグ33試合出場を果たし、A代表入りに向けて2009年シーズンに臨む。しかし、この年の9月に右膝前十字靭帯断裂の大怪我を負ってしまい、歯車はさらに噛み合わなくなっていく。
「北京五輪落選を機に、自分の長所を大事にすることと、苦手だった足元の技術の成長にフォーカスを当てて全力でやってきました。でも、徐々に調子が上がっていたタイミングでの大怪我。本当にプロは甘い世界ではないと痛感しました」
翌2010年は怪我の影響で大きく出遅れると、コンディションを取り戻せぬまま、このシーズンはリーグ出場0という苦悩の1年となった。2011年には横浜F・マリノスに完全移籍をして再起を誓うが、そこには当時、日本代表の不動のCBとして2大会連続のW杯出場、前年の南アフリカW杯でベスト16入りの立役者の1人となった中澤佑二の存在があった。
「佑二さんの後釜として期待されて移籍をしたのですが、一緒にやっていくと佑二さんの凄さとストイックさをまざまざと見せつけられたんです。週初めに走りのトレーニングがあって、エスパルスの時のようにそこで違いを見せつけようとしたのですが、在籍した2年間、佑二さんに一度も勝てなかった。走力、フィジカル、技術面すべて『これは勝てない』と思いましたね」
必死にもがけばもがくほど、思うようにいかない現実を突きつけられる。目標としていたA代表も、中澤に自信を打ち砕かれたことで遠ざかっていく感覚に陥った。
それでも、「中澤さんがいたからこそ、トレーニングに没頭できた」と青山は振り返る。右膝の補強とジャンプ系のトレーニングで限界まで体を追い込むうちに、手応えは着実に戻ってきた。「体の調子は良い。もっと試合に出たい」そんな気持ちが自然と湧き上がるようになっていた。
その後、2013年に出場機会を求め、年俸の減額を受け入れた上で当時J1のヴァンフォーレ甲府に完全移籍をし、城福浩(現・東京ヴェルディ監督)監督の下で主軸CBとして2年連続のJ1残留に貢献した。そして迎えた2015年、青山はJリーグから離れる決断を下すことになる。
「J1で10年間プレーし、代表云々のプレッシャーはもう無くなっていて、自分の得意な武器で真っ向勝負をしたいと思うようになりました。J1ではもう僕の特徴をよく知っているFWばかりだったので、あまり空中戦の勝負や1対1のフィジカル勝負を挑んでこなくなったんです。刺激が足りないなと。ちょうど2014年に、岩政大樹(現・東京学芸大学蹴球部監督)さんがBECテロ・サーサナFCで1年間プレーをして大活躍したことで、タイ・プレミアリーグにおける日本人選手の評価が一気に上がっていたこともあり、ムアントン・ユナイテッドFCから僕にオファーがきました。一度弾丸でタイに行って練習参加をしたら、屈強なブラジル人FWたちとバチバチのバトルができたんです。そこで『面白い』と思いました」
オーナーにも気に入られ、契約金も引き上げられたこともあり、ムアントン・ユナイテッドFCへの完全移籍を決断した。

「4年間プレーしたのですが、筋肉隆々の外国人選手たちと問答無用の激しいバトルができるわけですから、本当に毎日が楽しくて仕方ありませんでした。自分のサッカー選手としての原点を思い出すことができた最高の4年間でした」
2019年、タイの他チームやシンガポールのチームからオファーもあったが、「たまたまテレビで中村俊輔さんを特集した番組を見て、『もう一度Jリーグでやりたい』と思うようになった」と帰国を決意し、ガンバ大阪への完全移籍を選んだ。
だが、「ここから一発逆転を誓って移籍をしました。でもガンバに入ると宇佐美貴史や三浦弦太など、若い選手の技術レベルが4年の間に格段に向上していて、サッカーもよりコンパクトになっており、適応するのに苦しんでしまった」
結果、J1リーグ出場は2度目の0。1年で満了を告げられ、「チャンスがあるうちはやり続けたい」という意思から2020年にJ3の鹿児島ユナイテッドFCに完全移籍。この1年が現役最後の1年となる―。
※本記事は2026年2月に取材した内容をもとに構成しています。
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青山直晃(あおやま なおあき)
岐阜VAMOS代表/岐阜聖徳学園大学サッカー部コーチ 愛知県一宮市出身。小学生からサッカーを始め、中学時代は岐阜VAMOSでプレー。前橋育英高では細貝萌と2枚看板を組み、高校卒業と同時に清水エスパルスに加入。2007年には北京五輪アジア予選で五輪出場権獲得に貢献。横浜F・マリノス、ヴァンフォーレ甲府を経て、2015年からタイ・プレミアリーグのムアントン・ユナイテッドFCで4年間プレー。ガンバ大阪、鹿児島ユナイテッドFCを経て2020年に引退。J1リーグ通算11年を含むプロ生活16年。引退後は住宅営業、介護士として社会人キャリアを積み、2023年10月に中学時代の原点である岐阜VAMOSの代表に就任。2026年6月からは岐阜聖徳学園大学サッカー部コーチも兼任し、育成年代の指導にも携わる。





