中編はこちらからご覧ください。
BESSの家を辞めてから、青山はハローワークに通い始める。プロ引退後と同様に誰かの人脈に頼るようなことはしたくないという意思は一貫していた。
「もともとBESSの家で働いていた間も月1、2回のペースで岐阜VAMOSの練習に顔を出していたのですが、クラブが少子化などの煽りを受け、選手がどんどん減っていて。危機的状況にあるのを目の当たりにしながら『なんとかできないものか』と思うようになりました。そのタイミングで前代表から『代表を引き継いでほしい』と言われたのですが、それだけで食べていくことはできないし、いきなり引き継ぐのも無責任だと思ったのですぐに継ぐことはしませんでした。毎日練習に行くことで、スタッフや選手、保護者とのコミュニケーションを深めながら、定職を見つけるためにハローワークに通う日々を送りました」
本格的に引き受ける準備をするために、仕事を辞めてからすべての平日練習と土日の試合にもサポートへ入るようになった。それゆえにハローワークでは土日休みという条件で仕事を探した。そして3ヶ月の職探しの中で介護事務の求人に関心を持つ。
「僕は長男だったこともあり、もともと介護職には少し興味がありましたし、土日休みなのが魅力でした。ここに申し込もうと思ったのですが、僕には何も資格がなかったので、介護職員初任者研修(旧ヘルパー2級)の資格を取りました。研修を真面目に受けていたので、介護センターの先生たちからの評判が良かったことから正社員としての契約を勝ち取ることができました」
2023年9月に介護センターに入社し介護事務員としての職をスタートさせると、10月に正式に岐阜VAMOSの代表に就任した。ハローワークに通う傍ら、中型免許も取得。2足のわらじを本格的に履く日々が幕を開けた。
「事務の仕事は本当に難しかったですね。1円の差も埋めないといけないし、エクセルとかPCスキルは今までほとんどやってこなかったのに、当然すべての事務作業を自分でやらないといけない。『事務も自分には向いていない』と思いながらも、目の前のことに全力を尽くすことはやり続けました」
8時から17時まで事務仕事を行い、19時からの練習を見て、帰宅は22時過ぎ。そこからクラブの事務作業やスケジューリング、グラウンド調整を行い、土日は遠征や試合。息つく暇もないほど忙しい毎日を送っていたが、心は充実していた。
岐阜VAMOSは2023年に中学3年生が13人いたが、中学2年生が2人、1年生が0人という状況だったため、3年生が卒業した2024年にジュニアユースが消滅してしまった。青山はまずジュニアユースの早期復活を重要事項とし、選手獲得と指導方針の確立に奔走する。
当初、3人しかいなかったスタッフの増員を進めるとともに、同じ岐阜市内に拠点を置き、岐阜VAMOSで指導をしていた経験のあるT・F・Kフットボールクラブの代表との連携を模索した。ユニフォームや指導体制、環境、送迎面などについて協議を重ねた末に、両クラブは合併。2024年3月、青山が代表を務める新生『岐阜K・VAMOS』が誕生した。
さらに青山の情熱と「サッカーを楽しんで日本一を目指す」というコンセプトが岐阜県で伝わり始め、近隣の他チームから選手が来てくれたことで、昨年より中学生年代のジュニアユースである岐阜VAMOSが立ち上がった。現在は1学年で1チーム作れるようになり、ジュニアユースの1期生・25人が新たな歴史を作り上げようとしている。

クラブ指導、運営において手腕を発揮する一方で、定職にも変化が訪れた。2024年10月に社内異動になり、事務職からグループホームの現場に携わるようになった。そして、昨年7月に正社員から非常勤への契約変更を申し出た。
「B級ライセンスを取得しに行ったり、クラブ運営でやるべきことが増えたりしていく中で、正社員なのに土日を休むことに負い目を感じていました。周りの人たちは口にはしませんでしたが、自分の中で他の社員に迷惑をかけてしまうと思ったんです。サッカーチームの代表職を中途半端にしたくはなかったし、介護職も楽しくて学ぶことが多かったので、介護センターの雇用を非常勤という形に変えてもらいました」
青山の実直な働きぶりがあったからこそ、会社側も彼の申し出に快く応じてくれた。そして今、彼は充実した表情で様々な立場の人たちに真摯に向き合っている。
そんな彼に「改めてプロ生活を振り返って、後悔などはありますか?」と聞いてみた。
「もう後悔も未練もないですね。長友はまだまだ最前線を走っているし、圭佑はいろいろなチャレンジをしているし、(細貝)萌はザスパ群馬の社長をやっている。『みんなやりたいことをやっているな』と思いながらニュースを見ているだけです。もちろん凄いなと思うし、尊敬もしていますが、『羨ましい』とか『俺もそうなりたかった』『そうなれたはず』という思いはありません。あくまで僕は僕ですし、大事なのは今であって、いつまでも今まであったものに目を向けてばかりでは前に進めないですから。あくまで今の状況というのは、自分がこれまでいろいろなものを積み上げてきた結果だと思っていますし、どんなプロ選手もその競技をやめてしまったら、もうプロ選手ではなく、1人の社会人になります。僕のベースの考え方として、『今を一生懸命に生きる』ということにずっと迷いはありません。もちろん野望や野心は常に持っていますが、そこにワープできるとか、安易な近道はないと思っているので、まずは一歩進むために目の前のことに全力で取り組む。これが僕のスタイルです」
一貫した生き方があったからこそ、彼は自らの意思と決断でこれまでの道を切り拓いてきた。落ち着いた表情と声で思いを口にしてくれている彼だが、そこには隠しきれない強い野心もヒシヒシと伝わってきた。

「小さい頃から、日本一になりたいとずっと思っていました。だからこそ、今のチームを一番にするためには何をすべきか常に考えています。この場所でそう思えるのは、岐阜VAMOSが僕のサッカー人生の中で一番楽しかった3年間であり、僕という人間を作ってくれた3年間だったんです。だからこそ、中学3年間でサッカーの楽しさや僕が見てきた風景を彼らにイメージしてもらいたいんです。その上で高校に進んで、そこから大学、プロや社会に旅立っていってほしい。そういう意味では、BESSの家に岐阜支店があったこと、これが僕を今の人生に導いてくれた大きな縁でしたね。この縁をこれからも大切にしたいと思っています」
自分の人生は自分で切り拓く。生きる意義を見出している人間は強い。青山直晃の人生は私たちに多くのものを教えてくれる―。
※本記事は2026年2月に取材した内容をもとに構成しています。
現在は介護士を退職され、岐阜VAMOS代表としてクラブの運営・強化に奔走されるとともに、岐阜聖徳学園大学サッカー部コーチも務められています。

青山直晃(あおやま なおあき)
岐阜VAMOS代表/岐阜聖徳学園大学サッカー部コーチ 愛知県一宮市出身。小学生からサッカーを始め、中学時代は岐阜VAMOSでプレー。前橋育英高では細貝萌と2枚看板を組み、高校卒業と同時に清水エスパルスに加入。2007年には北京五輪アジア予選で五輪出場権獲得に貢献。横浜F・マリノス、ヴァンフォーレ甲府を経て、2015年からタイ・プレミアリーグのムアントン・ユナイテッドFCで4年間プレー。ガンバ大阪、鹿児島ユナイテッドFCを経て2020年に引退。J1リーグ通算11年を含むプロ生活16年。引退後は住宅営業、介護士として社会人キャリアを積み、2023年10月に中学時代の原点である岐阜VAMOSの代表に就任。2026年6月からは岐阜聖徳学園大学サッカー部コーチも兼任し、育成年代の指導にも携わる。





