前編はこちらからご覧ください。
優勝した瞬間、「俺は警察の中でやるべきことはやり切った」と思ったんです。
ちょうど翌年から機動隊の3年任期を終えて、その後は所轄署(注1)に配属されるだろうということもあり、「特練員としての訓練中は目標もはっきりしていてやりがいもあったのですが、所轄に戻ってからの自分の将来が全く描けなかった」とその先の人生がぼやけてしまっていた自分がいた。
(注1:各都道府県にある警察本部が、管轄となる地域の安全をより細やかに守るために置く警察署のこと。)
では、これから何をするか。この時、彼の目には光り輝く世界が映っていた。
「柔道を始めた頃から、テレビでよくK-1を見ていたんです。なので、柔道以外だったら格闘技をやりたいとずっと思っていました」
実は東海大進学を諦めた時にはすでに、「格闘家になる」という夢はかなり具体的なものになっていた。警察に入ってからも、「警察をやめて東京で格闘技をやりたい」という話を何度も母親にしたことがあった。
「母は僕が警察官になったこと、公務員になったことに安心をしていたので、物凄く反対しました。祖父母もその話をすると悲しそうな顔をしていたのを今もはっきりと覚えています」
手塩にかけて育ててくれた家族の期待を裏切ることはできないと、高校時代同様に自分の本心に蓋をして、覚悟を決めて警察での日々を送っていたのだった。
だが、逮捕術で関東管区警察逮捕術大会優勝という目に見える結果を出したことで、ついに心の蓋を開ける時がやって来た。
「もちろん警察という仕事に誇りは持っていましたし、好きでした。正義感は強い方だったので、悪いヤツを捕まえたいと思っていました。でも、僕の柔道人生を振り返った時に、どこをとっても中途半端だと思った。
だからこそ、柔道と徒手格闘で身につけたこの力を、夢だった格闘技にそのままつなげたい。当時23歳だったので、これ以上遅くなったらせっかく見つけた新たな夢まで遠のくし、格闘家としての人生を今度こそはやりきれるようにしたいと思うようになりました」
決断を下した愛鷹は退職の意向を上司に伝えたが、当然のように引き止められた。家族にも引き止められたが、「気持ちが一切変わらない自分がいて、どれだけ本気か再確認できた」と自分の意思を貫き通した。
ここから彼の格闘家としてのセカンドキャリアがスタートするのだが、その前に彼の人生から伝えておきたいことがある。それは人生における『Y叉路』の話だ。自分と向き合い、目標や夢に向かって突き進もうとする人間は、必ずどこかで今後の人生を大きく左右するY叉路に立たされる。
2つの「どうしてもやりたいこと」によるY叉路もあるが、多くの人が直面するのは「現状維持か、これまでの安住の地を捨てて飛び立つか」の2択によるY叉路だ。
現役アスリートでいうと移籍だったり、海外挑戦だったりするが、まだプロアスリートになれていない人間(特に社会人)にとっては、成功はおろかご飯を食べられるかの保証もなく、生存競争の激しい世界に飛び込むことには相当の覚悟と決意がいる。
筆者でいうと、大学を卒業して銀行員になった時、愛鷹と同じ5年目に『このまま銀行に残って安定した暮らしをするか、銀行を辞めて上京して夢だったフリーサッカージャーナリストに転身するか』のY叉路に立たされた。
どちらか決めないといけない瞬間だった。だが、この時すでに自分の覚悟は決まっていた。
その理由は愛鷹と同じで、銀行に入った時から「将来はフリーサッカージャーナリストになりたい」と願っていたからだ。
だが、就職した最初の1、2年は辞めることばかり考えていた。「俺にはこの夢があるから、銀行でうまくいかなくてもいいや」と思っていたが、それは単に夢をスケープゴートにして、現実から目を背けていたに過ぎなかった。
ここで銀行を辞めて今の世界に飛び込んでも、覚悟も何も決まっていない状態(自分の中では覚悟を決めたと思い込んでいるに過ぎない)では、結局は現実の厳しさに打ちひしがれて、銀行と同様に中途半端に投げ出してしまい、今の自分にはなれていなかっただろう。
母親の言葉もあって、それに気づいた3年目以降は「銀行業務をこなせない人間が、より厳しいジャーナリストの世界で仕事がこなせるわけがないし、生き残れるはずがない」と自分に言い聞かせながら、銀行の仕事に向上心を持って臨むようになった。
すると、逆にサッカージャーナリストになる覚悟はどんどん固まっていき、銀行でひとつの成果が出た瞬間に、「やり切った、次へ行こう」とスムーズに決断することができたし、その覚悟はこれまでよりもずっと強固だった。
こうした筆者の身の上話をすると、愛鷹は言葉1つひとつに深く頷きながら、こう口にした。
「僕もY叉路に立ったときに、警察を辞めて格闘家に転身する人生の方が物凄く光り輝いて見えたんです。その光は一瞬の憧れではなくて、自分が人生をかけて長い間育んできた光。だからこそ、迷いはありませんでした」
愛鷹にもずっと胸に秘めてきた想いがあった。しかし、その想いをスケープゴートにすることはせず目の前の警察官としての任務、目標にも全力で打ち込んだ。だからこそ、目の前にY叉路が現れたときにも、後ろめたい気持ちにならずに決断を下すことができたのだ。
警察を辞めた愛鷹は静岡のジムに所属すると、ジムのオーナーが清水市場内で経営する海鮮丼屋の2階の倉庫を家賃3万円で間借りし、トレーニングとバイトに明け暮れる日々を過ごした。
「お金がなかったので、静岡浅間神社や水道屋でアルバイトをしながら、風呂なしの倉庫に住んでいました。それでも凄く楽しかった。
警察官の時は夜に出歩くことすらもできなかったので、夜にコンビニにいるだけで『俺、自由だ』なんて思ったりしていました。毎日がウキウキしていたので、お金がないことなんて苦ではありませんでした」
転身1年目で、日本の打撃系格闘技興行であるBigbang(ビッグバン)でデビュー。ディファ有明という会場で彼はデビューを果たすと、2ラウンド目で相手のローキックを浴びて足の骨を折るというアクシデントに見舞われた。しかし、このデビュー戦を経験したことで、彼はより格闘技に魅了されていった。
「人生で初めてリングに立った時に、足が宙に浮いているような感覚になったんです。スポットライトを浴びて、何千人もいるお客さんが自分と相手しか見ていないリングに立つわけですよ。
立った瞬間に『すごいな、こんな世界があるんだ』と魅了されましたし、試合後にギプスしている自分の足を見て、『俺、頑張ったな』と思ったんです。これが格闘の世界、俺が求めていた世界なんだと」
ここから愛鷹は破竹の勢いを見せる。デビュー戦こそ判定負けを喫したが、ここから怒涛の11連勝を重ね、転身4年目の2016年12月4日に行われたBigbang 27におけるヘビー級王座決定戦で勝利を収め、初代ヘビー級王者に輝いた。そして2017年には夢だったK-1への参戦を果たした。
「ひとつ、またひとつと試合を重ねるごとにだんだん自分の周りに人が集まってきて、応援してくれる人が増えていった。母も祖母もプロデビューをしてからチャンピオンベルトを獲るまでは試合に勝っても『おめでとう』とは言ってくれるのですが、『それでいつ辞めるの?』と毎試合聞いてくるんです。
でも、チャンピオンになったら『ここまできたらやれるところまでやりなさい』と言ってくれるようになりました。もうモチベーションしかありませんでした」
2017年11月に初代K-1ヘビー級王座決定トーナメントに出場。2019年にはその年から開幕したKrushクルーザー級王座決定トーナメントで初戦敗退を喫するなど、負けることはあったが、それでも「次こそは勝つという気持ちは強かった」と毎日が充実していることに変わりはなかった。
同年8月、大阪で開催されたK-1 WORLD GP 2019で2mの長身を誇るクルーザー級王者シナ・カリミアン(イラン)と対戦するチャンスを得ると、3ラウンド目に渾身の右フックで巨大なチャンピオンをマットに沈めた。
「当時、カリミアンは日本人相手に無敗で、世間の9割以上が僕のKO負けを予想していました。だからこそ自分を信じて、トレーナーを信じて臨んだ試合でした。勝った瞬間はトレーナーと抱き合って男泣き。この試合が、『愛鷹亮』の名が世間に知れ渡る大きな分岐点になりました」
その年のK-1アウォーズでベストKO賞を受賞するなど、一気に世間でも注目の存在となり、メディア露出も増えた愛鷹。
「俺はK-1チャンピオンになれるところまで来たな」
やりたいことを存分にできて、かつ夢に向かって邁進できている。順風満帆で迎えた2020年、ここから彼の格闘人生が深い暗闇の中に吸い込まれていった。
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愛鷹亮(あいたか りょう)
静岡県沼津市出身のプロキックボクサー。力道場静岡に所属。
妻は元アイドルの佐藤すみれ。
高校卒業後は警察に就職し機動隊員として活動。その後、プロ格闘家になる夢を叶えるために機動隊を除隊。立ち技格闘技の道を志し、Bigbangではヘビー級王座にも就いた。
K-1の舞台では王者シナ・カリミアンを沈めジャイアントキリングを成し遂げるも、怪我で長期離脱を余儀なくされた。現在は自身の引退を懸けたラストマッチに向かい、鍛錬を積む。